2005年6月5日
「幸いな人たちとは」
ルカの福音書 6章17〜26節

 一般的に言って世の中の多くの男性は、お金・地位・名誉を欲し、そのためには最大限の努力を惜しまないでしょう。もちろん、全くそれとは無縁の生き方をしている人もいるでしょうし、クリスチャンの男性はまた別な人生を送っているはずです。一般の人々が求める幸せと主イエスが教えてくださる幸せとは大きく違います。今朝はマタイの“山上の説教”と比較されるルカの“平地での説教”を取り上げます。
 主イエスが12使徒を選んでから山を下り、平らなところにお立ちになると弟子たちや群衆が御許に集まってきました。多くの人々がイエスの教えを聞き、また病気を直していただくためです(17-19節)。そこで主は目を上げて弟子たちを見つめながら、話し出されました。幸いな人たちとは次のような人のことです。

 I. 「貧しい者は幸いです。神の国はあなたがたのものだ から。」(20節)
 「貧しい者」はマタイの「心の貧しい者」(5:3)より意味が広いでしょう。実際に貧しい人のことを言っているからです。しかしただ経済的に貧しいだけでなく、神と人との前に何も誇ることがないと考える、謙遜な人、幼子のように主を信じ、神の国を受け入れる人のことです。だから神の国はその人のものとなるのです。それに対して富んでいる者は哀れなのです(24節)。

 II. 「いま飢えている者は幸いです。やがてあなたがたは 満ち足りるから。」(21節)
 これは肉体的に飢えているというよりも「義に飢え乾く」(マタイ5:6)人を指していると考えられます。社会正義を熱心に求め、悪や不正に対して憤り、それらを正そうとする人たちは、やがて主の助けによって満たされるのです。これと反対に「いま食べ飽きている」人は、何の不足も感じず、社会正義を求める気持ちにもなれないので、哀れなのです(25節)。

 III. 「 いま泣く者は幸いです。やがてあなたがたは笑うから。」(21節)
 泣いているのは、自分の罪や社会的不正、社会的悲惨などのゆえなのです。その人は主イエスによって問題が解決されたとき、心から笑い、喜ぶようになります。自分の罪、社会の罪が解決されるとき、真の喜び、慰めが与えられるのです(マタイ5:4参照)。その反対に自分の罪に目をつむり、この世の成功を喜び、笑っている人は哀れな人です(25節)。本当の「幸いな人たち」になりたいものです。

  今泉キリスト福音教会 牧師:岡本 昭世 【説教インデックスへ
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