2005年8月14日
「よけい愛する・少ししか愛さない」
ルカの福音書7章36-50節

 クリスチャンとは、イエス・キリストを自分の救い主と信じ、罪が赦された人のことです。しかし罪赦された人にとって自分の罪の大きさを考えたことがあるでしょうか。ほかの人と比べて自分の罪が大きいか、小さいか考えたことがあるでしょうか。普通はないはずですが、私たちはしばしば自分の罪を小さいと考えたい気持ちもあるかも知れません。しかしそのような気持ちは主イエスに対する思い・愛の大きさに現れるのです。今朝も主イエスの教えから学びましょう。

 I. 自分の多くの罪が赦された人は・・・
 主イエスは、ある町でパリサイ人の招きに応じ、その人の家に入り、食卓に着かれました。するとそこにその町の罪深いひとりの女が、香油の入った石膏のつぼを持ってきて、泣きながら、イエスのうしろで御足のそばに立ち、涙で御足をぬらし始め、髪の毛でぬぐい、御足に口づけして、香油を塗りました(37-38節)。これを見ていたパリサイ人は、イエスがもし預言者なら、こんな罪深い女に自分をさわらせるはずがない、と心の中で思いました。もちろんすべてをご存じの主イエスは、彼に向かって一つのたとえ話をしました(41-42節)。彼が主の質問に正しく答えたように、500デナリの負債を免除された人の方が50デナリの負債を免除された人よりもその金貸しを愛するようになります(43節)。この多くの負債が免除された人は罪深い女を指しており、少ない負債が免除された人はパリサイ人を指しています。また金貸しは主イエスを指しています。女は自分の罪が多いと思い、その罪が主イエスによって赦されたことの感謝と愛の思いを、彼女ができる精一杯の仕方で表したのです(38,44-46節)。

 II. 自分の少ない罪が赦された人は・・・
 パリサイ人の罪が神の御前に小さく、罪深い女の罪が大きいと決して言えるはずがないのですが、人はパリサイ人のように自分の罪は少ししかないと考え、赦される必要も少ししかないと考え勝ちです。そしてそれは主イエスへの態度になって現れます。彼は主イエスがその家に入ってきたとき、礼儀である足を洗う水も出さず、主に挨拶の口づけもせず、頭に油をぬることもしませんでした(44-46節)。彼が主イエスを深く愛しているとは思えません。それは自分の罪が小さいと考えていたからです。一方この女は自分の罪は非常に大きいと考え、その多くの罪が赦されたことは、どんなに感謝しても感謝し過ぎることはないと思い、その思いを主イエスへの限りない愛で表したのです。だから、主イエスが言われるように、「この女の多くの罪は赦されています。というのは、彼女はよけい愛したからです」(47節)となるのです。私たちもこの女に見習いたいと思います。なぜなら、私たちはすでに主から、女と同じすばらしい赦しのおことばをいただいているのですから(48,50節)。

  今泉キリスト福音教会 牧師:岡本 昭世 【説教インデックスへ
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