2005年10月02日
「ただで与える福音」
マタイの福音書10章5〜15節
 世には多くの宗教がありますが、その多くは何らかの行いによって救われると言っています。例えばそれは、多額のお布施であったり、良い行いであったり、厳しい修行であったりします。私たちが聖書から教えられることは、私たちに何の行いも求められていない、ということです。それが福音です。救いはまさに神からの一方的な贈り物であり、私たちはそれをただでいただくのです。弟子たちは、主イエスから派遣されて福音を伝えました。その福音の特徴を考えてみましょう。

 I. 福音はただで受けたのだから、ただで与えよ。
 弟子たちは、12使徒として選ばれるとすぐに、異邦人の町に行かずに、イスラエルの滅びた羊のところに行くように命じられました(5-6節)。彼らが伝えるべき内容は「天の御国が近づいた」ということです(7節)。神の国とは、主イエスが王としてご支配する霊的な王国で、イエスを信じる者はだれでも神の国に入ることができます。神の国はまだ始まったばかりで、完成はまだ先ですが、弟子たちは御国の福音を宣べ伝えたのです。弟子たちは福音宣教に伴うさまざまな力を与えられました。「病人を直し、死人を生き返らせ、ツァラアトに冒された者をきよめ、悪霊を追い出しなさい」と命じられ、「ただで受けたのだから、ただで与えなさい」と言われました(8節)。この原則は、主の十字架と復活により救いのみわざが完成したあとでも全く同じです。「今日ののみことば」にあるとおりです(ローマ3:23-24)。私たちもただで救われました。だからただで福音を宣べ伝えるのです。

 II. 福音は、受け入れる人にはとどまり、受け入れない人からは返って来ます。
 弟子たちは必要最小限の身支度をして、町々村々に入り、受け入れてくれる家にとどまり、福音を伝えました(9-11節)。弟子たちを迎え入れてくれる家には、平安を祈る挨拶をします(12節)。平安を祈る挨拶は、単なることばではなく、霊的で実質的な祝福を伴います。つまり平安は福音を伝えることでもあります。イエスの福音を伝えて、その家がそれを受け入れるならば、平安はその家、その人のところにとどまり、その家が福音を受け入れないならば、平安は弟子たちのところに返って来ます。その家の人々は平安の祝福にあずかれません。ただそれだけでなく、さばきの日には大きな罰を受けることになるのです。福音の重み、重要性は今日でも同じです。福音を受け入れるか、拒むかでその人の人生は、分かれた二つの道を歩むことになります。一つは救いの道、もう一つは滅びの道です。Iコリント1:18を読んでみましょう。福音を受け入れない町を去るとき、弟子たちは自分たちの足のちりを払い落とします。それは、相手の意志と責任により自分たちはこの町を出ていくのだ、という意思表示を表しているのです(14節)。福音を受け入れましょう。
  今泉キリスト福音教会 牧師:岡本 昭世 【説教インデックスへ
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