2005年11月20日
「主イエスこそ心の傷をいやす方」
ヨハネの福音書9章1〜12、24〜25節
 山の中の一軒家にただ一人で住んでいる場合は別ですが、私たちは毎日何人もの人と接し、多くの人とことばを交わします。それは家族だったり、学校の友だちや職場の人たちだったりします。互いに交わすことばによって私たちは慰められたり、励まされたり、時には傷ついたりします。傷ついたときは、「もうだめかも知れない」と思ってしまうこともあります。私たちの心はこのように大変敏感で傷つきやすいのです。主イエスは私たちの傷ついた心をどのように扱ってくださるのでしょうか。

 I. 主イエスは私たちの傷ついた心をご存じです。
 主イエスが弟子たちとエルサレムの市内を歩いていたとき、道ばたにいた生まれつきの盲人を見られました。弟子たちはこう質問しました。「先生。彼が盲目に生まれついたのは、だれが罪を犯したからですか。この人ですか。その両親ですか。」(2節) 確かに本人の罪や親の罪の結果がその人を不幸にすることは、聖書の中にも記されています(民数記14:18、エゼキエル18:2,4参照)。弟子たちにとって盲人の目が不自由であることに心を痛めるというより、いわば神学的な興味で質問したのでしょう。心ない弟子たちのことばを聞いて、この盲人はどんなに傷ついたことでしょう。恐らく毎日のように人々から傷つくようなことばを聞いたことでしょう。イエスさまはすべての人の心の内をご存じですから、この人の心の思いも、今日の私たちの心の思いも知っておられます(ヘブル2:17-18,4:15-16参照)。そして心からあわれんでくださいます。イザヤ42:3の「今日のみことば」にあるとおりです。主イエスは私たちが最も弱く、傷つきやすい存在であることをご存じの上、傷つけないように配慮してくださるのです。

 II. 主イエスは私たちの傷ついた心をいやしてくださいます。
 主イエスのお答えは、弟子たちにとって意外だったでしょう。「この人が罪を犯したのでもなく、両親でもありません。神のわざがこの人に現れるためです。」(3節) 主は罪と盲目との因果関係をはっきり否定されました。しかし盲目の原因・理由についてはお答えになりませんでした。多くの場合私たちは、不幸といわれることがらの原因を知っても、何の益にもなりません。神様はすべてをご存じですが、すべてを私たちに知らせてくださることはあまりないでしょう。私たちが知る必要がないからです。しかし、主のお答えは非常に重要な真理を示しています。この人の盲目という不幸の現実でさえも、神様のわざ--主イエスの御力とご愛--を現すために用いられ、その結果神の栄光を現すということです。主はこの人を盲目から解放されました(6-7節)。彼は、自分が盲目であったのに、今は見える、とユダヤ人の指導者たちにはっきりとあかししました(24-25節)。この時すでに盲人の心の傷もいやされていたと思われます。
  今泉キリスト福音教会 牧師:岡本 昭世 【説教インデックスへ
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