2006年01月29日
「主に従うことの意味」
ルカの福音書9章57〜62節
 「主とともに歩む その楽しさよ。主の踏みたまいし 御跡をたどる。・・・」(聖歌588)。 確かに主イエスを救い主と信じ、弟子となって従うことは、恐れや悩みから解放され、恵まれた人生を送ることができます。しかし同時に、主に従うためには、あらかじめ多くの犠牲を覚悟しなければなりません。主に従うことは、決して楽な人生を歩むことではないからです。

 I. 主に従うことは安定した生活を期待することではない。
 主イエスはいよいよ十字架への道を歩み始めました。御顔を真っ直ぐにエルサレムに向けて、サマリヤを通って行かれました(51-56節)。するとある人がイエスに言いました。「私はあなたのおいでになる所なら、どこにでもついて行きます。」(57節)。この人は律法学者でした(マタイ8:19)。主イエスについて、その教えや行っているみわざを見聞きして、この方こそ従っていくべきお方と決心したのでしょう。しかし主のお答えはかなりきびしいものでした(58節)。あちこちとえさを求めて探し歩く狐でさえ、眠るための穴があります。日中空を飛び回る鳥でさえ、夜にはからだを休める巣があります。しかし人の子には夜身を横たえるベッドもないのです。あなたはそのような生活をする覚悟ができていますか、と主は言われるのです。

 II. 主に従うことはこの世の義理を欠くことでもある。
 第2番目の人は、これまでイエスに付き従ってきた弟子の一人でした(マタイ8:21)。この人に向かって主は「わたしについて来なさい」と言われました(59節)。彼は主に従う気持ちはあったのでしょう。ただ、「まず行って、私の父を葬ることを許してください」とお願いしました。彼のお父さんは間もなく亡くなるのでしょう。父親の葬儀をすることは息子の大切な義務のはずです。しかし主のお答えはかなり奇妙なものでした(60節)。この世の人たちの葬儀は、霊的に死んでいる人たちにまかせなさい。あなたは出ていって、神の国を言い広めなさい、と言われるのです。福音を語ることはそれほど急を要する問題なのです。
 III. 主に従うことは後ろを振り返らないことである。
 3番目の人は前の二人より主に従う覚悟ができているようです。だから、ほんのちょっとだけ家族に別れの挨拶をさせてほしいと主にお願いします(61節)。しかし主のお答えは非常にきびしいものでした(61節)。鋤きは牛や馬に引かせて、前へ前へと進み、畑に畝を作って行くものです。もし鋤きに手をかけながら、後ろを見るならば、真っ直ぐに耕すことはできません。同様に主に従おうとするならば、これまでつながりのあった人たちと別れて、ひたすら主に従わなければなりません。それは家族や親戚、友人、職場の人たちであるでしょう。主は、私たちに一度きっぱりとこの世と別れを告げて、全面的に従うように、と言われるのです。
  今泉キリスト福音教会 牧師:岡本 昭世 【説教インデックスへ
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