2006年06月25日
「一人の人が悔い改めることの重み」
ルカの福音書 15章1〜10節

 私たちの周りで「迷える羊・迷える子羊」ということばを知っている人は少なくないでしょう。辞書にあるようにこのことばは「迷いの多い、弱き者のたとえ」として使われています。しかし、大切なことは神の許から離れたので、迷っているということです。主イエスの有名なたとえから学びましょう。

 . 以前の私たちは神の前に失われた存在でした。
 主イエスはみもとに集まってきた二組のグループの人たちに向かって、このたとえ話をしました。一組のグループは、取税人、罪人たちです。もう一つのグループは、パリサイ人、律法学者たちです。主が神の国の話をしておられると、「取税人罪人たちがみな、イエスの話を聞こうとして、みもとに近寄って来」ました(1節)。すると、パリサイ人、律法学者たちは、つぶやいて、「この人は、罪人たちを受け入れて、食事までいっしょにする」と言いました(2節)。
ユダヤ人の指導者たちは、当然そのままで神の国に入れると、思っていました。(しかし、彼らは主イエスの神の国への招きに対し、色々な言い訳をつけて応じませんでした。彼らは神の国に入れないのです。14:18-24参照) 彼らにとって取税人や罪人たちは神の国に入れるはずがない、それなのにイエスはこの人たちを受け入れていて、我慢ならない、と考えていたのです。このたとえにあるように、私たちはだれでも神に前にいなくなった一匹の羊であり、なくした一枚の銀貨であることを知らなければなりません。私たちは、神に立ち返るまで神の前に失われた存在なのです。

 . 私たちが悔い改めるなら、天において大きな喜びがあります。
 第一のたとえに出てくる一匹のいなくなった羊は、取税人、罪人たちを指しています。手元に残っている99匹の羊は、パリサイ人、律法学者たちを指しています。一匹のいなくなった羊が見つかったことは、取税人、罪人たちが悔い改めて、神に立ち返ったことを指しています。それは大変すばらしいことで、「99人の正しい人」(彼らはそう主張しているだけで、決して正しくないのですが)にまさる喜びが天にあるのです(7節)。一人のいのちの重みに、パリサイ人と取税人の違いがあるはずがありません。みな尊いのです。パリサイ人たちは、取税人たちが悔い改めて神の国に入れるのを喜ぶべきなのです。
 もう一つの銀貨のたとえも同じ真理を教えています。女が持っていた10枚の銀貨は、恐らく結婚するとき持ってきた持参金であったのでしょう。大切なものですから、そのうちの一枚でもなくなれば大変です。あかりをつけ、家を掃いて、念入りに捜すでしょう。見つかったときの喜びは9節のとおりです。一枚のなくした銀貨が見つかったことは、一人の罪人が悔い改めて神に立ち返ることを指しています。それは実にすばらしいことで、神の御使いたちに喜びがわきおこるのです(10節)。御父も主イエスもみなが悔い改めて神に立ち返るのを本当に望んでおられるのです。

  今泉キリスト福音教会 牧師:岡本 昭世 【説教インデックスへ
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