2006年07月09日
「まじめ人間の落とし穴」
ルカの福音書 15章25〜32節

 さんざん悪いことをして来た人は、自分が悪かったと心から思えるので、悔い改めと主イエスへの信仰告白もはっきりしています。また信じてからの生き方も一変します。一方まじめな人は元々大きな悪事をしていない、と思っていますから、悔い改めと信仰告白も明白でない場合が多いのです。主イエスのたとえの中に出てくる兄息子は、お父さんのもとでまじめに働いている、まじめな人でした。しかし、こういう人ほど問題があるのです。兄息子は、パリサイ人や律法学者たちを指しています。彼らの問題は何だったのでしょうか。

 I. まじめ人間は自分は正しいと思っています。
 弟が帰って来たのを本当に喜んだお父さんは、肥えた子牛をほふって、祝宴を始めました。畑から帰ってきた兄は、それを見ておこって家に入ろうともしませんでした。お兄さんの言い分です。「ご覧なさい。長年の間、私はおとうさんに仕え、戒めを破ったことは一度もありません。その私には、友だちと楽しめと言って、子山羊一匹くださったことがありません。」(29節) 兄は確かにまじめにお父さんに仕え、毎日のように畑に出て仕事をしたのでしょう。しかし、自分が戒めを破ったことは一度もない、と言い切るのは大変な高ぶりです。自分の真の姿を見ていません。パリサイ人や律法学者たちは、まさにそのような人たちでした。確かに形式的には律法を守ったかも知れません。しかし、心の中は高ぶりや不満、取税人や罪人たちを軽蔑する思いでいっぱいでした(18:9-12参照)。すでに学んだ「悔い改める必要のない九十九人の正しい人」(7節)も、パリサイ人たちがそう思っていることを、主イエスが代弁したまでのことです。それに彼らは神に対する真の感謝の思いもありません。この人たちこそ真っ先に悔い改めるべきなのです。

 II. まじめ人間は罪人たちが悔い改めるのを喜びません。
 兄の言い分はさらに続きます。「それなのに、遊女におぼれてあなたの身代を食いつぶして帰ってきたこのあなたの息子のためには、肥えた子羊をほふらせなさったのですか。」(30節) 確かに弟は、父の身代を食いつぶして帰ってきたのですから、息子としての権利は失ったかも知れません。しかし、父が息子としてもう一度迎え入れてくださったことで、兄といえども、父のしたことに対して善し悪しを言う権利はありません。気にかかるのは、「あなたの息子」と言う言い方です。兄息子にとって、弟息子は、自分の弟ではないようです。弟に対する愛情やあわれみのかけらも見いだせません。それに対してお父さんは「おまえの弟」(32節)と言って、弟として喜んで迎え、いっしょに楽しく祝宴に加わるように勧めます。放蕩息子が帰ってきたのは、「死んでいたのが生き返り、いなくなっていたのが見つかった」(32節)ことなのです!

 パリサイ人、律法学者たちは取税人や罪人たちが悔い改めて主を信じ、救いに与ることを喜びません。それは、実に悲しいことで、主イエスはどうにかして彼らユダヤ人の指導者が真の悔い改めとへりくだり、弱い者たちへのあわれみを持ってほしいと願ったのです。私たちも主と同じ心になりたいものです。

  今泉キリスト福音教会 牧師:岡本 昭世 【説教インデックスへ
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