ファミリー礼拝 2006年07月16日
「主イエスの暖かいまなざし」
マルコ6:30-34、10:17-22、ルカ22:54-62

 皆さんが「だだいま!」と言って学校から帰ってくるとき、お母さんが「お帰りなさい。」と、迎えてくださると、ほっとする気持ちになるでしょう。「きょうも学校でいろいろあったけど、やっぱり家はいいなあ」と思うに違いありません。皆さんとお母さんが顔を合わすとき、まず初めに互いの目を見るのではないでしょうか。皆さんはお母さんの暖かいまなざしを見て、安心するでしょう。お母さんは皆さんの目に悲しみや、つらさの影がないのを見て、ほっとするに違いありません。きょうはイエスさまのまなざしを見てみましょう。

 I. 主イエスは群衆をご覧になって、深くあわれまれました。
 弟子たちは伝道旅行から着かれて帰ってきました。イエスさまは、いま弟子たちにとって一番必要なことは、静かなところでゆっくり休むことだと見て取って、「さあ、あなたがただけで、寂しい所へ行って、しばらく休みなさい」と言われました(マルコ6:31)。彼らが舟に乗って寂しいところへ行くと、もうすでに大勢の人々が徒歩で先に着いてしまいました。イエスは、舟から上がられると、多くの群衆をご覧になり、「彼らが羊飼いのいない羊のようであるのを深くあわれみ」いろいろと教え始められました(34節)。当時のユダヤ人の指導者たちは、人々に大切な救いのことや正しい生き方を教えていませんでした。イエスさまは大勢の群衆にやさしい目を向けられるお方です。彼らの必要をすぐにわかり、おことばによって答えてくださるのです。

 II. 主イエスはまじめな青年にも暖かいまなざしを向けられます。
 主イエスの所に来た青年は、小さいときから律法を守り行ってきた、まじめな人でした(マルコ10:19-20)。しかし彼は、永遠のいのちが与えられたい、と心から思っていました。この青年の一番の問題は、心が財産に向けられていることでした。だからこそ青年にきびしい命令をされたのです(21節)。しかし、イエスさまは、その青年を「見つめ、その人をいつくしんで」言われたのです。その青年に暖かいまなざしをじっと向けられたことがわかります。神様のみに目を向け、財産への執着から解放されて、主により頼んで行く生き方を心から勧めたのです。この青年はどうしたでしょうか(22節)。主のまなざしはいまも私たちの上に注がれているのです。

 III. 主イエスは、ご自分を否んだペテロを見つめられました。
 主イエスが予告されたとおり、ペテロは三度イエスを知らない、と言ってしまいました。すると直ちに鶏が鳴きました(ルカ22:60)。このとき、「主が振り向いてペテロを見つめられ」ました(61節)。ペテロを責める、きびしいまなざしだったでしょうか。いいえ、そうは思いません。きっと、自分の弱さを認め、悔い改めと反省を求める暖かい、思いやりのあるまなざしだったことでしょう。ペテロは自分の人間的な力により頼んでいました。死を覚悟して主に従い通せると、確信していました(33節)。でも主はペテロの弱さをご存じでした(34節)。主はつまずいたペテロが再び立ち直ることも確信しており、またペテロのために祈られたのです(31-32節)。今も私たちのために祈ってくださっているのです。

  今泉キリスト福音教会 牧師:岡本 昭世 【説教インデックスへ
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