2006年08月06日
「赦されたのだから、赦しなさい」
マタイの福音書18章21〜35節

 「赦し」は、「アガペーの愛」とともに、人間だけに与えられた最も美しい感情と言えるでしょう。主イエスがこれまでに教えてこられたこと(15-20節)と関連して、ペテロが質問しました(21節)。ペテロは、ユダヤ人の教えでは人を赦すのは三度まで、と言われてきたことから、七度も赦せば十分すぎる、と考えていたのでしょう。ところが、主イエスのお答えはあまりにも途方もない赦しでした(22節)。その理由を主イエスは、たとえを用いて教えられたのです。

 I. 私たちは神に対して犯した莫大な罪を赦していただきました。
 ここで神の国は地上の王にたとえられています。しもべたちは王から財産を任されて、管理運営をするように命じられています。その精算のために、まず1万タラントの負債のあるしもべが王のところに連れて来られました。1タラントとは、6千デナリに相当し、当時の1日の労賃が1デナリでしたから、1年に300日働くとして、20年の労働賃金に相当します。それの1万倍ですから、何と20万年の賃金になります! そんな大きな負債を返すことができるでしょうか(25-26節)。しもべの主人はかわいそうに思って、彼を赦し、借金を免除してくれました。これは神に対する私たち人間の罪の大きさと神のあわれみの故の赦しを指しています。神はあわれみのゆえに私たちの罪を一方的に赦してくださいました。私たちはどんなにがんばっても自分の負債(罪)を返すことなどできませんから。

 II. 私たちも兄弟の小さな罪を赦さなければなりません。
 ところが、負債を免除され、自由になったこのしもべは、出ていくと、同じしもべ仲間で、彼から100デナリの借りのある者に出会いました。彼はその人をつかまえ、首を絞めて、「借金を返せ」と言い、仲間が、ひれ伏して頼んだにもかかわらず、承知せず、連れて行って、借金を返すまで、牢に投げ入れました(28-30節)。彼の仲間はその一部始終を主人に報告しました。その結果、主人はどうしたでしょうか(32-34節)。主人が呼びつけたしもべに言ったことは真実です。しもべの一番の問題点は、自分の借金(罪)の大きさの自覚が足りないことと、その借金(罪)を赦してくださった主人(神)への感謝の思いがないことです。しもべ仲間がしもべにしてた借金は100デナリでした。それは4か月くらいの賃金に相当します。決してどうでもよい金額ではないのですが、自分が赦してもらった金額に比べればものの数ではありません。神に対する私たちの大きな罪が赦された者として、兄弟から受けた小さな罪を赦すべきなのです。35節は、もし私たちが心から兄弟の罪を赦さないなら、私たちの罪も赦されない、と教えているのでしょうか。否むしろ、本当に罪が赦されたと確信している人は、兄弟の罪を赦すはずだ、と教えているように思います。「主の祈り」にあるように(6:12)、非常にむずかしいことですが、信仰を持って「私は兄弟の罪を赦しました」と、言うべきなのです。

  今泉キリスト福音教会 牧師:岡本 昭世 【説教インデックスへ
静岡県富士市今泉2640-15 TEL&FAX:0545-52-6382