2006年09月24日
「正しいさばきを求めて、失望せずに祈ろう」
ルカの福音書 18章1〜8節

 多くの人が腹立たしく思うことは、この世で正義が貫かれないで、不正がははびこることでしょう。不正な手段でお金を儲け、しかもこっそりと隠れてやっているために、罰せられることなく、死ぬまで安楽に過ごしている人がいます。一方弱い立場の人は、例えば安い賃金で働かされ、しかも時にはただ働きをさせられ、その他にもいろいろと悪い条件で働かなくてはなりません。結局強い者がより多くの利益を得、弱い者はより少ない所得で我慢しなければなりません。このような不公平や不正はずーっと続くのでしょうか。しかし、失望してはいけない、正しいさばきをされる神に祈りなさい、と主イエスは言われます。主はどうしてそう言われるのでしょうか。

 I. この世の裁判官も熱心な求めにはさばきをします。
 主イエスは、一つのたとえを話されました。ある町に、神を恐れず人を人とも思わない裁判官がいました。ところでその町に、一人のやもめがいて、この裁判官の所にやってきて、「私の相手をさばいて、私を守ってください」としきりにやってきて、訴えたのです(3節)。このような裁判官が、果たして弱い立場のやもめの訴えを取り上げ、正しい裁判をすることがあるでしょうか。まず普通ではあり得ないことです。この裁判でやもめの訴えを取り上げても何の利益にもならないからです。彼の考えは4節によく表れています。でも彼は女の訴えを取り上げたのです。それは訴えを取り上げないと、やもめがひっきりなしにやって来て、うるさくて仕方がないからです(5節)。あとの「うるさくて仕方がない」の直訳は「私の目の下をたたく、殴る」です。決してよい動機ではありませんが、女の執拗な訴えに根負けして裁判をするわけです。彼は恐らく正しい裁判をしたと思います。もし、相手に有利になるような判決を下したら、さらにしばしばやってきて、裁判官をわずらわすでしょうから。

 II. 主イエスは正しいさばきをしてくださる。
 では、真の裁判官である主イエスの場合はどうでしょうか。もし女が主イエスに祈り、求め、訴えたならば、必ずこの女の訴えを取り上げて、速やかに、正しい判決を下すでしょう。裁判は、この世ででもありますが、本当の、正しい裁判は、この世の終わりに行われ、誰も反論できない正しい判決を下すのです。7節8節は、非常に重要な箇所です。なぜなら、主イエスは、ご自身神であり、人を愛しておられます。訴え出ている選民、キリスト者をあわれんでくださり、キリスト者の祈り、願い、訴えを取り上げて、正しいさばきをしてくださるはずです。主は私たちを愛し、あわれみ、個人的に関心を持ち、心に留めていてくださるのです。だから、あきらめてはいけないのです。どうせだめだ、とあきらめてはいけません。このたとえを通し、主が私たちに教えようとしておられることは、私たちキリスト者がいつでも祈るべきであり、この世の現実に失望してはならないことです。(1節)。

  今泉キリスト福音教会 牧師:岡本 昭世 【説教インデックスへ
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