2007年02月25日
「祝福される献金」
ルカの福音書 21章1〜4節

 私たちは毎週のように教会に集い、礼拝をささげています。父なる神と御子イエスに賛美をささげ、祈り、聖書を朗読し、メッセージを聞きます。そして必ず献金と感謝の祈りの時があり、それは礼拝と切り離すことができません。この献金は集う者たちに祝福を与えるはずですが、時には負担に感じる人もいるでしょう。献金は私たちの経済的な生活と深く関わっているからです。主イエスは献金についてどうおっしゃっているでしょうか。ご一緒に考えてみましょう。

 I. 祝福される献金は額の大きさによらない。
 主イエスは宮で弟子たちに教えておられました。宮には一般の男性が入れる庭の手前に婦人だけが入り、礼拝する婦人の庭がありました。そこに献金箱が備えられていて人々は思い思いにお金をささげていました。主イエスは金持ちたちが大金を投げ入れるのをご覧になり、他方貧しいやもめがレプタ銅貨二つを投げ入れるのも見られました。主は弟子たちにこう言われました。「わたしは真実をあなたがたに告げます。この貧しいやもめは、どの人よりもたくさん投げ入れました。みなは、あり余る中から献金を投げ入れたのに、この女は、乏しい中から、持っていた生活費の全部を投げ入れたからです。」(3-4節) 主イエスは金持ちたちの多額の献金を喜ばれませんでした。それは確かに金額としては大きかったかも知れませんが、彼らの持っていた多額の財産からすれば、決して負担にはならなかったからです。一方貧しいやもめの献金の場合はどうでしょう。この人は当時の貨幣としては最小単位のレプタ(1デナリの128分の1)2枚です。1デナリは一家の1日分の生活費ですから、レプタ2枚は非常に少ない額のはずですが、彼女にとっては持っていた生活費の全部なのです。主イエスはこの女性の献金を称賛されました。

 II. 祝福される献金は心のこもった献金である。
 金持ちたちの献金には、心がこもっていませんでした。彼らにとっては多額の献金であっても、生活を圧迫するような犠牲は伴っていません。ユダヤ人の宗教的指導者の律法学者とも共通する点があるでしょう。彼らはいつも周りの人々の目を気にしていました。人々に自分たちは聖書を重んじていることを見せびらかし、広場で人々から挨拶されたり、会堂の上席や宴会の上座が好きで、さらに見栄を飾るために長い祈りをします(20:46-47)。金持ちや律法学者は、神さまへの敬虔な心や感謝の気持ち、生活のすべてを主におゆだねする信仰が欠けているのです。やもめには、大きな犠牲が伴う献金をしてもなお、喜びと感謝の思いがあったのでしょう。明日からの生活を主におゆだねし、主が必要のすべてを与えて、豊かに養ってくださるに違いないと思ったはずです。パウロは同じように、私たちがしている献金のこころがまえについて教えています。「ひとりひとり、いやいやながらでなく、強いられてでもなく、心で決めたとおりにしなさい。神は喜んで与える人を愛してくださいます。」(コリント9:7)主と私だけの間で祈りつつ決めて、心からの献金をおささげしたいと思います。

  今泉キリスト福音教会 牧師:岡本 昭世 【説教インデックスへ
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