2007年07月29日

「ゲッセマネでのイエスの祈り」
ルカの福音書 22:39-46
 主イエスが十字架を前にして、極度に苦しみもだえて祈られたことを、表面的にしか聖書を読まないが、批判的な人は、「イエスは十字架による死が怖くなったのだ」と非難します。一方かの有名なソクラテスは、同じく死刑の宣告を受けたとき、「悪法もまた法なり」と言って、毒杯を仰ぎ、従容(しょうよう)として死に就いた、と伝えられています。だからソクラテスの方がりっぱだと言うのですが、果たしてそうなのでしょうか。

I. 「みこころならば、この杯をわたしから取りのけてください。」
 過越の食事とその席で大切なお話(ヨハネの福音書の13-17章に詳しく述べられています。)を終えられると、主イエスはオリーブ山にあるゲッセマネの園に入って行かれました(マタイ26:36参照)。近くにペテロ、ヤコブ、ヨハネを置いて、主はひざまずいて、苦しみもだえて、いよいよ切に祈られました。「今日のみことば」42節のとおりです。 平行記事のマタイとマルコには詳しく書かれていますが、それによるとイエスは3度苦しい祈りをささげられたことがわかります。他方「誘惑に陥らないように祈っていなさい」(40節)と言われた弟子たちは、悲しみの果てに、眠り込んでしまいました(45節)。主イエスの苦しみもだえる祈りの理由は、まったく罪のないお方が神の御怒り(「この杯」)を受けて罰せられることに耐えられなかった、と考えられます。主は御父のみこころが、全人類を罪から救うためには、十字架による贖い以外にはあり得ない、と十分わかっておられました。しかし、なお罪を知らないお方として、それは耐えられない苦しみだったのです。御使いが天から現れて、主イエスを力づけたほどです(43節)。「汗が血のしずくのように地に落ちた」(44節)の描写が主の御苦しみの大きさを示しています。

II. 「しかし、わたしの願いではなく、みこころのとおりにしてください」
 主は同じような祈りを3度御父にささげられ、こうしてみこころのままに行動されることを決心されました。十字架による刑罰がどんなに耐えられないほどのものか、と理解した上で最終的に御父のみこころのとおりに、従われたのです。かつて主は弟子たちにこう言われました。「わたしを遣わした方のみこころを行い、そのみわざを成し遂げることが、わたしの食物です。」(ヨハネ4:34) そして「大祭司の祈り」と言われる祈りにおいて、主は御父に次のように祈られました。「あなたがわたしに行わせるためにお与えになったわざを、わたしは成し遂げて、地上であなたの栄光を現しました。」(ヨハネ17:4)
 主イエスが歩まれた歩みは、また私たちへの模範でもあります。私たちの人生の歩みには、人間的な思いや願いを先行させたい場合が少なくないでしょう。そのようなとき先ず、自分の願いを申し上げ、それらがみこころに叶っているかどうかをみことばと聖霊の導きによって吟味することです。主はきっと私たちにみこころに叶った、主の目から見て最善の道を示してくださるでしょう。その道を歩めば良いのです。
  今泉キリスト福音教会 牧師:岡本 昭世 【説教インデックスへ
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