2007年08月12日

「裁判官の責任」
ルカの福音書 2章12〜25節
 裁判官の責任は被告人の罪状をよく調べて、検事と弁護士の言い分をともに適切に精査し、被告人が有罪か無罪かを確定し、判決を下します。その時わいろとか同情とか個人的願いなどに左右されて、真実な判決がゆがまないように気をつけなければなりません。ではイエスさまを最終的にさばいたポンテオ・ピラトの場合はどうだったのでしょう。

I. ピラトは主イエスの無罪を確信していた。
 最初の裁判のとき、ピラトは祭司長や群衆に「この人には何の罪も見つからない」(4節)と言いました。彼はイエスをヘロデのところに送り、ヘロデから送り返されたイエスを再び裁判官として取り調べました。彼は祭司長たちと指導者たちと民衆とを呼び寄せて、「あなたがたが訴えているような罪は別に何も見つかりません」(14節)と言いました。続けて「見なさい。この人は、死罪に当たることは、何一つしていません」(15節)と言って、イエスを懲らしめた上で(鞭打ち刑にして)、釈放しますと主張しました(22節も同じ)。このようにピラトは主イエスが無実であることを確信していました。できればそのまま釈放したかったのですが、ユダヤ人の手前、むち打つ刑で済ませたいと考えました。主イエスの裁判は、イエスが神の子、キリストであると主張すること以外に何の罪もないのですから(それはピラトのあずかり知らない罪状でした)、有罪にすることができなかったのです。しかし彼は信念を貫くことができませんでした。

II. ピラトはユダヤ人と民衆の圧力に負けてしまった。
 ピラトがいかにユダヤ人たちを説得しよとしても、彼らは耳を貸しませんでした。サンヘドリンの議員たち(祭司長たち、律法学者、長老たち)と民衆は、バラバを釈放して、イエスを「十字架だ。十字架につけろ」(21節)と叫び続けました。このバラバは、都に起こった暴動と人殺しのかどで、牢に入っていた者です。そのままなら当然十字架刑になるはずでした。しかし、彼らは「あくまで主張し続け、十字架につけるよう大声で要求した。そしてついにその声が勝った」(23節)のです。平行記事のマタイにはこうあります。「そこでピラトは、自分では手のくだしようがなく、かえって暴動になりそうなのを見て、群衆の目の前で水を取り寄せ、手を洗って、言った。『この人の血について、私には責任がない。自分たちで始末するがよい。』」(27:34) ピラトにとって一番大切なのは、正義や真実を追究するより、ユダヤ人たちとの間に対立がなく、すべてが平穏無事に進み、自分の地位が安泰であることでした。正義の裁判官として正しいさばきをするよりは、たとい間違っていても、自分の身が安全であれば良かったのです。ここに裁判官としてのピラトの罪があるのです。
  今泉キリスト福音教会 牧師:岡本 昭世 【説教インデックスへ
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