2007年09月30日

「主イエスの復活が信じられない?」
ルカの福音書 24章13〜24節
 イエス・キリストの復活は、歴史の片隅でこっそり起こり、誰も知らないまま、歴史の中に埋もれてしまった、と言うようなものではありません。先週学んだように時間と空間の中で確かに起こった出来事で、その事実を確認した弟子たちが大勢います。しかし、復活は多くの人にとってあり得ないような、驚くべきことでもあります。エマオに向かっていた二人の弟子は、復活をどのように受け止めたでしょうか。

 I. 十字架だけで終わっては希望がない。
 主イエスがよみがえられた日の午後、夫婦と思われる二人の弟子が自分の家のあるエマオ(エルサレムから北西に11キロほど離れた村)に向かって歩いていました。二人の話題は、主にこの2-3日の間に主イエスの身に起こった出来事でした。するとそこによみがえられたイエスご自身が近づいて、彼らとともに道を歩かれました。しかし、二人の目はさえぎられていて、イエスだとはわかりませんでした。このようにいわば霊の眼が閉じられた状態は、復活後の弟子たちのうちに見られるものです(ヨハネ20:14,12:4参照)。現在の私たちにもこれは当てはまると思います。主イエスの本当のお姿が、ぼんやりしてはっきりと見えないときがあります。しかし、心配する必要はありません。いつの日にか私たちの心の目が開かれるときが必ずあります。主イエスから二人が話し合っている話の内容を聞かれると、二人の弟子は暗い顔つきになった、とあります(17)。主はすべてをご存じでありながら、質問しているわけですが、二人が望を置いていたナザレのイエスが十字架につけられて死なれたので、彼らの希望が失われたのです。

 II. 復活も聞いただけでは信じられない。
 二人の弟子は、仲間の女たちの話を聞いています(22-24)。女たちが墓に行きましたが、イエスのからだが見あたらないこと、女たちは御使いたちの幻を見たが、御使いたちはイエスは生きておられると告げたこと、女たちから聞いて仲間の何人かが(ヨハネ20:2-10によれば、ペテロとヨハネであったことがわかります。)墓にいって見て、はたして女たちの言ってとおりで、イエスさまは見あたらなかったこと、などです。この二人の弟子は女たちの話を聞いてもそれを本当のこととして受け入れていません。イエスのからだが墓になかったこととイエスがよみがえられたこととが結びつかないのです。実に、イエスの復活はそれほど信じられないことなのです。常識では考えられないほど異常な出来事だからこそ、女たちも御使いから聞いただけでは信じられなかったのです。弟子たちも同じです。彼らはイエスさまをこの目で見てようやく信じたのです。だからこそ復活は事実と言わざるを得ません。世の多くの人は主イエスを救い主として信じていません。それは主の処女降誕とこの復活があり得ないこととして、受け入れられないからです。しかし、心を開いて聖書を読み、先入観や偏見を取り去って福音のメッセージを聞くならば、心の目が開かれて、復活の事実を受け入れることができます。その人たちがクリスチャンなのです。
  今泉キリスト福音教会 牧師:岡本 昭世 【説教インデックスへ
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