礼拝説教

2008年3月16日

「十字架による救い」
ヨハネの福音書19章23〜30節
 十字架はキリスト教会のシンボルであり、十字架のない教会はキリスト教会とは言えません。十字架は、私たち人間の救いのために、なくてはならないものです。
十字架は昔のローマ人たちが考えだした最も残酷な死刑の道具でしたが、私たちの救い主イエスは、その十字架にかかって死なれたのです。

I. 主イエスはユダヤ人の王として十字架にかかりました。
 イエスは、ユダヤ人の最高議会で不当な裁判にかけられ、死刑を宣告され、ローマ人たちに引き渡されました。議会では、主イエスがご自分を神の子としたので、神を冒涜した罪で有罪となり(7節)、ローマ人による裁判では、形の上だけですが、ローマに反逆する王であると主張したことになり、やはり有罪とされました(12節)。しかし、イエスは神を冒涜したこともなければ、ヘロデに代わるユダヤ人の王と主張したこともありません。ユダヤ人の指導者たちは、最初からイエスを殺そうとしており、罪状はどうでも良かったのです。イエスの上に掲げられた罪状書には、「ユダヤ人の王ナザレ人イエス」と書かれていました(19節)。これでは、ピラとがイエスをユダヤ人の王として認めることになるので、祭司長たちは、「彼はユダヤ人の王と自称した」と書いてほしいとピラトに願い出ましたが、ピラトは認めませんでした。主イエスは、このように「ユダヤ人の王」として十字架にかけられました。主は、神の御子であり、ユダヤの王の家系を引く王であり、この世の終わりのさばき主でありながら、十字架にかかって死なれたのです。

II. 主イエスは十字架によって救いのみわざを完成されました。
 主は十字架の上で7つのことばを発しておられますが、そのうちの3つがヨハネの福音書に記されています。主は苦しい十字架の上で、これから残していかなければならない、お母さんのマリヤを血を分けた弟たちにではなく、愛する弟子ヨハネに託しました(26-27節)。また聖書が成就するために「わたしは渇く」と言われました(28節)。そして最後に「完了した」と言われて、霊をお渡しになりました(30節)。「完了した」は御父から託された救いのみわざを今完了したという、高らかな勝利の宣言です。罪と死からの救いに関しては、何も不完全なものは残っていず、何も付け加える必要はありません。「今日のみことば」にあるように、「あなたがわたしに行わせるためにお与えになったわざを、わたしは成し遂げて、地上であなたの栄光を現しました」(17:4)の大祭司の祈りは、ここに完成したのです。この十字架によみがえりが続きますが、私たちのしなければならないことは、ただ一つです。それは、主イエスを救い主として受け入れることです。そうすればだれでも救いをいただけます。
  今泉キリスト福音教会 牧師:岡本 昭世 【説教インデックスへ
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