礼拝説教

2011年1月16日

「神の奥義の管理者」
コリント人への手紙 第一 4章1〜5節

 以前なら大きな家には執事と言われる人たちがいて、主人から家の財産の管理、家事の取り仕切りを任されていました。執事は主人から信頼され、任された仕事の結果を、決まった時期に報告する義務がありました。執事は、英語でスチュワードと言い、スチュワーデスは旅客機などの接客係の女性を指していることは、皆さんご存知です。パウロは、私たちキリスト者を「神の奥義の管理者」と呼んでいます。私たちに求められていることは何でしょうか。

 I. 管理者には忠実であることが要求される
 私たちは「神の奥義の管理者」である、とはどういうことでしょうか。「神の奥義」についてはすでに何回か触れました。神の救いのご計画は、以前には人々の目には隠されていましたが、主イエスが来られてから、その奥義が使徒たちと預言者たちを通して啓示され、人々に明らかにされました(エペソ3:4〜6参照)。福音を聞いて、教会の指導者たちもすべての信徒も、主イエスの救いにあずかりました。現在の私たちも、その福音を正しく理解し、人々に正しく伝えなければなりません。いわば救いのご計画の一つ一つを整理して、頭の中の整理箱にきちんと入れておき、いつでも取り出して使えるようにすることが求められています。必要な時に必要な場所で、必要な人たちに、整理箱から福音を正しく取り出して、適切に語り、その人たちを救いに導かなければなりません。それが神の奥義の管理という仕事です。その管理は、主イエスに対して忠実に行う責任があるのです。

 II. 管理者への評価は人々ではなく、主が行う
 コリントの人々の中には、パウロをあれこれと批判し、評価していました。彼らにそのような能力も、権限もないのですが、彼らはよく理解していないのです。しかしパウロは、「私にとって、あなたがたによる判定、あるいは、およそ人間による判決を受けることは、非常に小さなことです」と言うのです(3節)。すぐ続けて彼は、自分で自分をさばくことさえしない、と言っています。なぜなら、本当のさばきは、主が来られたとき、主ご自身がなさるからです(4〜5節)。私たち人間には、人をさばく権限も力もないのです。しかし、しばしば人々をさばいてしまいます。さばくことによって自分が何か偉くなったような気分を味わいます。それはちっぽけなことで、主ご自身の前に出ると、私たちはいかに福音全体を理解していないことや、忠実に管理運営していないことに気づくのです。コリント教会の人たちは、この点で高ぶりがあったのです(6〜7節参照)。私たちもパウロのように、この務めを忠実に行って一切を主に委ねたいものです。

  今泉キリスト福音教会 牧師:岡本 昭世 【説教インデックスへ
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