礼拝説教

2011年2月27日

「自分のからだをもって神の栄光を現しなさい」 
コリント人への手紙 第一 6章12〜20節

 コリントの教会の兄弟たちの中には、不品行について正しく理解せず、そのためにこの罪の重大さに気づいていなかったようです。様々な罪がある中で、不品行が大きな罪であるとともに、どのようにして主に喜ばれる生き方ができるかをパウロは解き明かしています。

 I. からだは不品行のためにあるのではない
 「食物は腹のためにあり、腹は食物のためにあります」(13節)は、食物と腹との密接な関係を述べています。これと同じように、からだと不品行との関係は避けられないと主張する人たちがいたようです。どちらも自然の成り行きで起こることで、自然なものと言うのです。ところで腹と食物はこの世だけの関係で、ともに主によって滅ぼされてしまいます。一方からだは、腹と食物との関係に似た、不品行のためにあるのではなく、主のためにあるのです。なぜなら私たちのからだは、神の御力によってやがてよみがえるからです。からだは、単に肉体を指すのではなく、神の栄光を現すために神が造られた人間として、全人格と切り離せません。また、私たちのからだは、キリストのからだの(教会)一部であり、極めて尊い存在です。だから、このようなからだが遊女と交われば、キリストのからだとの一体性から離れ、遊女と一つからだになってしまいます。もはやキリストと一体であるとは言えなくなります。だから、不品行はいけないのです。

 II. 自分のからだをもって神の栄光を現しなさい
 私たちのからだは、主イエスを信じたとき、聖霊のバプテスマを受けて、キリストのからだの一部とされました(12:3)。キリストのからだは教会です。教会員である私たちは、キリストのからだの一部とされているのですから、もし、遊女と交われば、「ふたりは一体となる」(16節)という結婚の奥義は、遊女との一体性へと変わってしまいます。だからこそ不品行の罪は重大なのです。それ以外の罪はからだの外に対するものですが、「不品行を行う者は、自分のからだに対して罪を犯すのです。」(18節)
 ですから、大切なことは、キリストのからだの一部とされた私たちのからだの正しい理解です。キリストのからだは、旧約聖書の神殿ないし宮を受け継ぐものです。従って私たちのからだは、神から受けた聖霊の宮であって、その中に主が住まわれる尊いものなのです。もはや、自分自身のものではありません(19節)。キリストが十字架の上で贖いの血を流してくださったことにより(代価を払い)、神のものへと買い取られました。「ですから自分のからだをもって神の栄光を現す」(20節)のです。

  今泉キリスト福音教会 牧師:岡本 昭世 【説教インデックスへ
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