礼拝説教

2011年3月20日

「 結婚していても、していなくても」
コリント人への手紙 第一 7章25〜35節

 コリントの教会には、若い男性や女性がかなりの数いたと思われますが、当時はその後のいわば落ち着いた時代と違って、危急の時と考えられていました。パウロがそのように教えていたので、独身の娘を持つ父親は、娘を結婚させて良いものかどうか、迷っていたようです。パウロは、この前学んだように、「そのままの状態にとどまる」ことを勧めています。

 I. 結婚したからと言って罪を犯すのではない
 「罪を犯す」と言っても道徳的な罪を言っているのではありません。「時は縮まっている」(29節)というように、主イエスの再臨が近いと考えていたので、男性もそうですが、結婚して、乳飲み子を抱えてる女性は特に、その身に苦難を招くことになるからです。初代教会で早くも始まった迫害や苦難は、この世の終わり近くなると更に激しくなるので、パウロの考えとしては、独身の人も結婚している人も、そのままの状態に留まることが、一番良いことだと考え、勧めているのです。それは今日でもある程度当てはまるかも知れません。結婚し、子どもができ、家族がふえるにつれて、むしろ問題は増加します。独身なら何の問題もないかというと、もちろんそうではありませんが、問題の種類も量も少ないはずです。そのような事情を第一に考慮すれば、結婚しないか、しているならば、その環境を変えないことです。それが良い道だとパウロは勧めているのです。

 II.独身のほうがひたすら主に仕えることができる
 これも100パーセントそうだとは言えません。夫婦そろって、与えられた賜物を用い使命感をもって、ひたすら主に仕えることもできるし、そういう人はむしろ多いでしょう。しかし、次のようなことも事実です。独身の男性は、妻がいないのですから、「どうしたら、主に喜ばれるかと、主のことに心を配ります」(32節)。しかし、結婚した男性は、「どうしたら、妻に喜ばれるかと世のことに心を配り、心が分かれるのです」(33〜34節)。同じことは未婚の女性および結婚した女性にもそっくり当てはまります。こう考えれば、独身のほうが、ひたすら主に仕えることができます。何しろ、妻ないし夫がいないのですから、相手を喜ばそうと、世のことに心を配り、心が分かれることがないからです。しかし当然のことながら、結婚していても、主に仕えることができます。だから、パウロはこう言うのです。「ですが、私がこう言っているのは、あなたがた自身の益のためであって、あなたがたを束縛しようとしているのではありません。むしろあなたがたが秩序ある生活を送って、ひたすら主に奉仕できるためなのです」(35節、「今日のみことば」)。私たちは、それぞれ置かれた所で、主に仕えて行きましょう。

  今泉キリスト福音教会 牧師:岡本 昭世 【説教インデックスへ
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