礼拝説教

2011年4月10日

「弱い人たちのことを配慮する」
コリント人への手紙 第一 8章7〜13節

 同じ主イエスに対する信仰を持ちながら、最後まで信仰を貫き通す人と、人生の途中でつまずいて信仰を失ってしまう人がいます。一般的には信仰の強い人と弱い人と言えるでしょうが、関わりのある人たちにも責任がある場合があります。パウロはこの点についてどう教えているでしょうか。

 I. 周りには信仰の弱い人たちがいる
 パウロは、コリントの教会に信仰が弱く、つまずいてしまう人たちがいることを認めています。彼らは、かつてギリシヤの神々を拝み、偶像にささげられた肉を食べていました。彼らが主イエス・キリストを救い主として信じ、救いの中に入ることができたことは、幸いなことでした。しかし、唯一のまことの神のみが神であり、偶像には何の力もないという確信がまだ与えられてないのです。だから、キリスト者になってからも、今までなじんで来た偶像にささげた肉を食べる時、彼にとって偶像は力があり、弱い良心が汚れるのです(7節)。彼は今なお偶像への信仰から完全に解放されていません。一方偶像なる神はもともと存在しないのだから、偶像にささげられた肉を食べても何の影響も受けない、信仰の強い人たちもいます。彼らは自由に振舞っていいのです。なにしろ主イエスへの彼らの信仰は、このようなことで何ら影響を受けないからです。しかし彼らにも、配慮すべきことがあります。

 II. 信仰の弱い人たちを配慮することが大切である
 食べ物そのものには何の損も益もありません(8節)。信仰の強い人たちは、偶像にささげられた肉を自由に食べる権利があります。しかし、そのことによって、弱い人たちのつまずきとならないように注意する義務もあります。弱い人は、強い人が偶像の宮で食事をしているのを見て、力を得て、その人の良心が弱いのに、偶像にささげられた肉を食べるようになるのです(10節)。そうすることによって、彼は偶像への信仰の影響を再び受け、まことの神への信仰からそれてしまいます。彼は弱い人につまずきを与えるという罪を犯すことになったのです。パウロが言うように、「その弱い人は、あなたの知識によって、滅びることになるのです。キリストはその兄弟のためにも死んでくださったのです」(11節)。彼は、その兄弟をつまずかせるという罪を犯し、同時にキリストに対して罪を犯しているのです(12節)。このように、日常の食べ物に過ぎないことですが、私たちは周りにいる信仰の弱い人たちを配慮して行動しなければなりません。

  今泉キリスト福音教会 牧師:岡本 昭世 【説教インデックスへ
静岡県富士市今泉2640-15 TEL&FAX:0545-52-6382