礼拝説教

2011年7月31日

「聖餐式にあずかる(2)」
コリント人への手紙 第一 11章23〜32節

 私たちが定期的に聖餐にあずかる時、主イエスは真実にかつ現実に、そして霊的に私たちとともに存在してくださって、私たちは主から霊的な恵みをいただきます。聖餐式は私たちの信仰的霊的な成長のために必要不可欠なものです。同時に、私たちは次のことに注意しなければなりません。それも大切な事柄だからです。

 I. 聖餐式を守ることは無言のあかしである
 私たちは聖餐を何度も繰り返して行います。それは、明らかに私たちがキリスト者であることをあかししていることになります。「ですから、このパンを食べ、この杯を飲むたびに、主の死を告げ知らせるのです」(26節)は、まさにあかしの事実を表しているのです。私たちはこの時、福音をことばで語ることをしませんが、その中心である主の十字架の事実と意味を常に思い起こし、それを世の人々に、無言で告げ知らせていることになります。それには特別に選ばれた人々ではなく、すべての教会員が行っているのです。教会は初めから、様々な迫害と困難を経験しましたが、キリスト者は命がけで、ある時はこっそりと家の中で、ある時は林の中で、時には地下の墓地で、主の晩餐を守ってきました。「この儀式を守ることは、キリストの死の偉大な説教者である」(カルバン)と言うとおりです。この式は、主の再臨の時まで続けられます。聖餐にあずかりながら、私たちは主が再び来られるのを待ち望むのです。

 II. 聖餐にあずかる時、各自が自分を吟味すべきである
 聖餐にあずかる者は、キリストの弟子、すなわち主イエスを救い主と信じ、かつ洗礼を受けた者とされます。それは、キリストの十字架の意味がよくわからなければ、「ふさわしくないままで」パンを食べ、主の杯を飲むことになるからです。それは、「主のからだと血に対して罪を犯すことになります。」(27節)このように、まず私たちは、主イエスの十字架の贖いのみわざをはっきりと理解しなければなりません。それが、「みからだをわきまえる」ことと言えるでしょう(29節)。聖餐にあずかる時はまた、これまでに犯してきた自分の罪を思い起こし、主に告白し、赦していただく時でもあります。さらに、「みからだ」は、主の教会を指しています。「ふさわしくないままで」、「みからだをわきまえないで」は、教会の中の兄弟姉妹たちへの愛の配慮の欠如を示していると言えるでしょう。乱れた愛餐会の持ち方は、キリストのからだである教会の兄弟たちへの心配りのなさ、いたわり合いの欠如を表しており、そのことを真実に反省する必要があるのです。そのようにしてから、私たちは聖餐にあずかります。

  今泉キリスト福音教会 牧師:岡本 昭世 【説教インデックスへ
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