礼拝説教

2013年9月22日

「主イエスの苦難と栄光」
ヨハネの福音書 12章27〜36節前半

 主イエスがこの世に来てくださった目的は、全人類を罪と死とさばきから救うために十字架にかかって死なれるためでした。しかし、十字架にかかられることは、主イエスにとって決して簡単なことではありません。それは大きな苦難を経験することであり、できれば避けたいことでした。しかしイエスは、そのためにこそこの世に来られたのです。

 I. イエスの十字架は苦難のみわざ
 「今わたしの心は騒いでいる。何と言おうか」(27節)とイエスは心の内の動揺を率直に表現しました。「騒ぐ」ということばはすでに11:33でも使われ、イエスが人としてのお気持ちを持っておられたことを表しています。「『父よ。この時からわたしをお救いください』と言おうか」と言われたのは、十字架にかかられる時を避けるという意味ではなく、十字架にかかられたその時の御苦しみの中から救い出してくださいという意味で、ここではゲッセマネの御苦しみ(マタイ26:36-44ほか)を少し違った表現で言い表わしています。ただここでは、ゲッセマネでなさった御父への祈りを、なさらなかったことがわかります。イエスはどんなに御苦しみが大きくても、御父のみこころに従う決心が定まっておられました。この十字架にかかられることを「地上から上げられる」(32節)と表現していますが、これは復活と昇天までを含むと考えられます。しかし、群衆は、キリスト=メシヤは永遠に生きておられると聞いている(ダニエル7:14)ので、どうして死ななければならないのか、とイエスに問います。彼らはイエスを本当には理解していないのです。

 II. イエスの十字架は栄光の現れ
 イエスは、御苦しみを受けられることを心に決めてから、「父よ。御名の栄光を現してください」(28節)と祈られました。この十字架のみわざは、御父の栄光を現すことでもあります。その時、天から声が聞こえました。「わたしは栄光をすでに現した」というのは、ラザロのよみがえりを指していると考えられますが(11:4,40)、イエスの地上でのご生涯でなさったみわざは、ことごとく神の栄光を現していると言えますし、同時にご自身の栄光を現しています(2:11)。「またもう一度栄光を現そう」は十字架から始まって復活、昇天までの救いのみわざを指していると考えられます(7:39参照)。十字架のみわざは、御父がイエスの栄光を現すことと同時に、イエスが御父の栄光を現すみわざなのです(17:1,4)。御父の天からのお声は、御父のイエスに対する信任のおことばです(30節)。また十字架のみわざは、この世を支配する者(サタン)が追い出される時であり、この世がさばかれる時でもあります(30節)。イエスが地上におられる間は、光があり、人々はイエスを信じることができるし、信じなければなりません(35-36節)。現在はどういう時でしょうか。

  今泉キリスト福音教会 牧師:岡本 昭世 【説教インデックスへ
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