礼拝説教

2013年10月20日

「互いに足を洗い合う」
ヨハネの福音書 13章12〜17節

 もし実際に私たちの先生が弟子たちである私たちの足を洗われたら、私たちは大変面食らってしまうに違いありません。ペテロの取った態度、言ったことばは、私たちを代弁していると言えるかも知れません。しかしイエスは、深い御思いをもって行動されたのです。今日はそのお心を学びましょう。

 I. イエスは模範として弟子たちの足を洗われた
 弟子たちはこれまで、自分たちの中で、神の国で誰が一番偉いかをエルサレムへ向かう道々で議論し合って来ました。その議論は過越の食事の席でも行ったほどで、彼らは互いに反目し合っていました(マタイ20:20-28,ルカ22:24)。弟子たちの人の上に立ちたいという価値観は、この世の支配者たちと変わらなかったのです(マタイ20:25)。その時イエスはこう言われました。「あなたがたの間では、そうではありません。あなた方の間で偉くなりたいと思う者は、みなに仕える者になりなさい。あなた方の間で人の先に立ちたいと思う者は、あなたがたのしもべとなりなさい。」(マタイ20:26-27節)そのことを弟子たちにはっきりと分からせるために、イエスは率先して弟子たちの足を洗われ、模範を示されたのです。一般的には先生が弟子たちの足を洗うことはないでしょう。しかし、イエスは模範としてなさいました。それは、事実イエスご自身の生き方でもあります。そのようにイエスは、人々に仕える生き方をされたのです。

 II. 弟子たちも互いに足を洗い合うべきである
 弟子たちが学ぶべきことは、主イエスに見習って、互いの足を洗い合うことです。それは、文字通り、たらいと水と手ぬぐいいを用いて、互いの足を洗い合うことではありません。互いに仕え合うことの実践です。弟子たちは間もなく訓練を終えて、主イエスの十字架と復活による救いのみわざが完成した後、福音を携えて全世界に出て行きます。彼らは新しく発足する教会の指導者となります。彼らが教会の中でどう振る舞うべきか—それが「互いの足を洗い合う」生き方なのです。それは例えば、「思うべき限度を越えて思い上がってはいけない」ことであり、「むしろ、神がおのおのに分け与えてくださった信仰の量りに応じて慎み深い考え方をする」ことであり、「兄弟愛をもって心から互いに愛し合い、尊敬をもって互いに人を自分よりまさっていると思う」ことでしょう(ローマ12:3,10)。それは牧師と信徒ではその仕え方に違いがあるでしょう。また、もっと広く大統領や首相と一般市民では、その仕え方に違いがあるでしょう。しかし、根本的にはイエスの仕え方に学ぶべきです。主は、聖霊によって私たちの置かれた立場での仕え方を教えてくださるでしょう。

  今泉キリスト福音教会 牧師:岡本 昭世 【説教インデックスへ
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