多くの教会では礼拝の中で献金をささげます。説教の前に献金をする教会もあれば、説教の後に献金を行う教会もあります。一般
的には説教の後に献金をする教会の方が多いでしょう。当然のことですが、献金は、神社やお寺であげているお賽銭でもなければ、会員として納める会費でもなく、日曜日ごとに払う講演料でもありません。献金はどういう意味があり、どのような心でささげればよいのでしょうか。
この世にあるすべてのものは、まことの神が造られたので、みな神のもの、神が所有者です。しかし神はそのすべての管理を私たち人間にゆだねられました(詩篇24:1,創世1:28-30)。しかし神はまたこうも言われます。「地の十分の一は、地の産物であっても、木の実であっても、みな主のものである。それは主の聖なるものである。
・・・牛や羊の十分の一については、牧者の杖の下を十番目ごとに通るものが、主の聖なるものとなる」(レビ27:30-32)。このように旧約時代の人々は収穫物や家畜などの十分の一を神のものとして喜んで主の御前に持って来ました。新約時代に生きる私たちは、旧約の原則は参考にしながら、律法に縛られず、喜んで、心で決めたとおりにすればよいのです。しかしながら十分の一は、今日「十一献金」という名で残っています。私たちは十分の一を主にささげて、残りの十分の九を自由に使っていますが、それは主が私たちに与えてくださる恵みと考えられます。十分の一は決して小さな数字ではありません。ですから私たちは十分の九を祈りつつ、上からの知恵を与えられて、賢く使わなければ家計を圧迫してしまうでしょう。
献金はあくまで自由意志で行うことが新約時代に生きる私たちのなすべきことです。「今日のみことば」にあるとおりです。決して強制されてするものではなく、いやいやながらするものでもありません。神と自分との祈りの中でささげるものです。5節にある「贈り物」「好意に満ちた贈り物」はギリシャ語で「祝福」を意味することばです。「祝福としての贈り物」が献金なのです。こうして豊かにささげる結果
、私たちは大きな祝福にあずかります。まず神は喜んで与える人を愛してくださいます(7節)。次に神は、私たちがすべてのことに満ち足りて、すべてのよいわざに励めるように、あらゆる恵みであふれさせてくださいます(8節)。さらに恵みが与えられます。今朝の礼拝で学びましょう。
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