この御言葉は、私が19歳の8月17日洗礼を受けた時に当時、この今泉教会で宣教師の働きをされていた田中美和子先生が、お祝いの寄せ書きに書いて下さった聖書の箇所です。田中先生は、中学2年に私が教会に通
うきっかけとなった、英語クラス(聖書の学び付き)を開いていて、私を洗礼にまで導いて下さった方です。
洗礼を受けてからの二十数年間を振り返ってみますと、人生の節目や困難な状況にある時に、この御言葉が常に意識させられ、私に生き方の転換を示す言葉になっています。田中先生が私の将来を予見して、この御言葉を送ってくれたわけではありませんが、神が田中先生を通
して、迷いやすい私に示したのだと思っています。
教会に通い始めた中学生の時代にさかのぼりますが、教会生活で常に私自身の課題としてあったのが、礼拝などで賛美を唄うということでした。「賛美」それは私にとって非常にやっかいな時間でした。なぜなら、私は音痴であるということが自覚できる音痴だからです。すなわち音が外れていることを自覚しながら、唄わなければならないのですから苦痛なのです。
このように苦痛でしかなかった賛美から、喜びの賛美に変えられた経験が、東京での生活で通
っていた教会のイースター礼拝で起こったのでした。そのイースター礼拝で読み上げられる、約30名ほどの召天された教会員の名前と召天記念日。礼拝の中でそれを聞きながら、今生きて信仰の道を歩んでいる者と、過去にこの教会で信仰を持って歩んだ者との間に、主にある霊の交わりが感じられ、私の魂に迫ってくるのでした。そしてその交わりの中に私自身も入れられている恵みを感じると共に、その霊的想いはさらに大きくなり、賛美の時には、かつてこの曲を賛美したであろう何千、何万のキリスト者と共に、同じ想いを以て主を称えているという想いになっていました。もう音痴などという問題は問題として存在しなくなり、主イエスにある霊的恵みを受けるために賛美を唄っているのでした。
自分が満足するためという目的で出席していた礼拝から、ただ神の恵みにより、主イエスによる贖いのゆえに義と認められた者として、へりくだって主とともに歩む決心を新たにさせていただく礼拝へと変えられました。と同時に、礼拝のプログラムひとつひとつが新鮮に感じられ、満足以上の喜びと感謝が聖霊を通
して魂に響くのを感じます。
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