礼拝説教
2004年9月12日
「クリスチャンと祈り」
ローマ人への手紙 8章26〜30節

 祈りの話をするとき、人は謙遜になる、と聞いたことがあります。みことばから主のみこころを教えられ、自分自身のために、またほかの人々のために真剣に祈る人ほど、主ご自身と自分の本当の姿を知らされ、謙遜になっていくのでしょう。祈りはしばしば呼吸にたとえられます。もしクリスチャンが祈りを止めれば、霊的に死んでしまうでしょう。クリスチャンを霊的に成長させる聖書と祈りを組み合わせた「静思の時」を毎日続ければ、その人は祝されたクリスチャンになるでしょう。

 私たちの周りにも「祈り」はあります。ある国語辞典によれば、「祈る」とは、・神仏に請い願う。神に福を求める。・心から希望する、とあります。・は神々への家内安全・商売繁盛の祈願を意味し、・は「ご結婚を祝し、幸多かれと祈る」に見られるように、心からの希望を意味するでしょう。
 しかし、私たちは天の父、すなわち天地万物を造り、私たちを救ってくださった、生ける神に祈るのです。祈りは、人格をもったお方と同じく人格を与えられた私たちとの霊的な交わりです。私たちはそのお方に祈り求め、主は答えてくださいます。

 しかし、しばしば私たちは、何を、どのように祈ったらよいかわからない時があります。そのとき心配することはありません。「御霊も同じようにして、弱い私たちを(直訳「私たちの弱さを」)助けてくださいます。私たちは、どのように(「何を」の意味もある)祈ったらよいかわからないのですが、御霊ご自身が、言いようもない深いうめきによって、私たちのためにとりなしてくださるのです」(26節)。現実に私たちはさまざまな苦しみに中で解放されることを願って(真の解放は、キリストの再臨に伴うからだの贖い=復活です)、うめき、祈るのです(23節)。御霊は私たちのうめきに呼応するかのように「ことばにならないうめき」によってとりなしてくださいます。この御霊のとりなしは、神のみこころに従ったものです。だからこそ「人間の心を探り極める方(すなわち父なる神)は、御霊の思いが何かをよく知っておられ」るのです(27節)。私たちは、祈れない時ほど、すべてをご存じであり、とりなしをしてくださる御霊を信頼して、祈ることが必要です。心にあることばにならない、悲しみ、苦しみ、不安、あせり、切なる願い、そのほか何でも心にある思いを主の前に注ぎだしましょう。なぜなら主は私たちを主の最善へと導いてくださるからです(28節)。

  今泉キリスト福音教会 牧師:岡本 昭世 【説教インデックスへ
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