「あなたは救われていますか」という質問は、わが国ではあまり聞きません。「あなたは救いの確信がありますか」という質問は、もう少し耳にするかも知れません。
しかし、「私は救われている」と確信を持つことは大切なことです。パウロにははっきりとした救いの確信がありました。それをテモテへの手紙1章から学んでみましょう。
I. キリストが来られた目的、なさったみわざを確認しよう。
「キリスト・イエスは、罪人を救うためにこの世に来られた」ということばは、真実であり、そのまま受け入れるに値するものです(15節)。イエスさまがこの世に来てくださり、罪人である私たちを救うために十字架にかかってくださった、という事実は誰も否定できません。誰も見ていない歴史の片隅で行われた事件ではありません。
紀元2030年ごろローマの支配下にあったユダヤのエルサレムでナザレのイエスが十字架にかけられて死んだのです。そして3日目によみがえりました。その目的は、私たちを罪から救うためです(ローマ4:25)。私たちは、その救い主イエスさまを信じたので救われたのです。
II. 聖書のことばは真実であり、受け入れるに値するものである。
イエスさまについての弟子たちの証言は、すべて真実であり、聖書の中に正しく記されています。主イエスの十字架を目撃した弟子(ヨハネと考えられます)は、こう書いています。「それを目撃した者があかししているのである。そのあかしは真実である。その人が、あなたがたにも信じさせるために、真実を話すということをよく知っているのである」(ヨハネ19:35)。聖書の証言が真実で、信用できるからこそ、私たちは救われていると確信が持てるのです。あなたはヨハネ3:16のみことばを信じているでしょう。そのとおりあなたは救われているのです。
III. 救われた後の歩みが確信を与える。
パウロはよみがえりのイエスさまに出会い、救われ、その場で福音を人々に伝える使徒として召されました(使徒9:15)。彼がその後使徒として働いて来たことに対して、主は「忠実な者と認めてくださった」のです(I
テモテ1:12)。パウロの歩みは、決して平穏無事な歩みではなく、多くの困難と迫害に満ちた戦いの中での歩みでした。 しかし、キリストのために働くからこそ迫害を受けるのなら、その人は間違いなくクリスチャンであることを証明していることになるのです。
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