2004年10月10日
「クリスチャンと聖餐式」
I コリント11章23〜34節

 求道していた頃を振り返ると、多くの人は、早く洗礼を受けて、皆と一緒に、配られてくるパンとぶどう液をいだだきたいと思ったことでしょう。確かに、多くの教会では、受洗をしてクリスチャンになった人が礼拝時に定期的に聖餐式に預かります。聖餐すなわち主の晩餐は、主イエスが十字架につけられる前の晩に、弟子たちといっしょにした過越の食事の席で、主ご自身が定めたものです。過越の祭りのために小羊がほふられますが、かもいと門柱にぬる血と食事に食べる小羊は、主イエス・キリストを予表しているのです。今日は、聖餐式の意味について考えてみましょう。

 第1に、パンとぶどう酒はキリストの十字架の死を表しています。
 パンは私たちのために十字架で死なれたイエスのからだを象徴しています。「これはあなたがたのための、わたしのからだです。わたしを覚えて、これを行いなさい」とパウロが主のことばを伝えているとおりです(Iコリント11:24)。カルヴァンは「見えるしるし(主の晩餐)を与えられたことによって、同時にご自身のからだをも与えられたからである」と言っています。このパンを食べることによって私たちは、霊的な意味において、キリストのからだに真実にあずかるのです。また、ぶどう酒はキリストが十字架の上で流された血を象徴しています。「この杯は、わたしの血による新しい契約です」とあるとおりです(25節)。この新しい契約は、モーセによる古い契約と対比されています。モーセをとおして主が民と結んだ古い契約は、雄牛の血によって確かなものとされました(出エジプト24:8)。しかし新しい契約は、十字架の上で流されたイエス・キリストご自身の尊い血によって確立したのです。私たちがぶどう酒をいただくとき、イエスの血によって私たちの罪が赦され、神と和解し、キリストとの新しい契約関係の中で生かされていると確信するのです。

 第2に、聖餐にあずかる人は、キリストにあって一つとされます。
 私たちが主の晩餐にあずかるとき、ともに一つのパンから食べ、一つの杯から飲むことになります。司式者が祝福する杯は、キリストの血にあずかることであり、司式者が裂くパンは、キリストのからだにあずかることです(Iコリント10:16参照)。「パンは一つですから、私たちは、多数であっても、一つのからだです。それは、みなの者がともに一つのパンを食べるからです」(17節)。こうして私たちめいめいが同じパンの一部をいただくことによって、キリストのからだの一部であること、キリストにあって一つであることをはっきり自覚するのです。

  今泉キリスト福音教会 牧師:岡本 昭世 【説教インデックスへ
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