私たちは水のバプテスマを受けて、教会員になります。その時すでに私たちは聖霊によるバプテスマを受けているはずです。バプテスマのヨハネは、私たちが今日受けているバプテスマと異なる水のバプテスマを人々に授けました。それは「悔い改めに基づくバプテスマ」でした。ヨハネは、人々が主イエスを救い主として心の中に迎え入れるために2つの働きをしました。
I ヨハネは人々に悔い改めのバプテスマを授けました。
すでに待降節のメッセージとしてお話したように、ヨハネは人々が救い主を迎えるための道備えをしました。彼の使命は「荒野で叫ぶ者の声」として人々に悔い改めを迫ることであり(4節)、悔い改めた人々にヨルダン川でバプテスマを授けることでした。ヨハネの所にやって来た群衆に彼は、「自分たちはアブラハムの子孫だから、そのままで天国にいける」などと決して思わないで、悔い改めにふさわしい実を結ぶようにと言いました(7-8節)。悔い改めの実とは、群衆、取税人たち、兵士たちがそれぞれに関わる人たちのことを具体的に思いやり、節度ある生き方をすることでした(10-14節)。この水のバプテスマは、今日私たちが受けている救いに基づくものではありません。ヨハネのバプテスマは、人々が後にいただく救いを伴うバプテスマ(聖霊のバプテスマ)への備えなのです。
II ヨハネはイエスは聖霊によってバプテスマを授ける方だと教えました。
人々は、ヨハネこそもしかしたらキリスト(救い主)ではないかと考えているのを知って、自分とキリストとの大きな違いを指摘しました。ヨハネはただの人に過ぎないので、「この方のくつのひもを解く値打ちもありません」と言い、イエスがやがてなさるすばらしいみわざについて明らかにしました。イエスは、ヨハネが授ける水のバプテスマではない、聖霊のバプテスマを授ける方なのです(16節)。ペンテコステの時にイエスは、ご自分を信じるすべての人に聖霊をお与えになりました(使徒1:5、2:1-12,33-39参照)。その最初の聖霊を受けたとき、人々は聖霊によってバプテスマを受けたとして、キリストのからだである教会の一部に加えられます。ヨハネが付け加えた「火」は、最後の時のさばきを指していると考えられます。彼は、キリストの救いとさばきは同時にやってくると考えていたのです。 |