主イエスは、公の働きを始める前、大工として仕事をし、一家を支えて来たと思われます。魚をとることについては、全くの素人のはずですが、ペテロたちに命じてたくさんの魚をとらせました。主がだだの人間ではなく、全知全能の神様であることを考えれば、納得のいくところです。主はペテロたちを、ご自分に従うように懇ろに取り扱われました。
I. 主のご命令に従うと、祝福を受けます。
主イエスは、ペテロの持ち船に乗り、岸から少しこぎ出させたところで、大勢の群衆に教えられました。話が終わると、シモン・ペテロに、「深みに漕ぎ出して、網をおろして魚をとりなさい」と言われました(4節)。ペテロの答えからわかるように(5節)、4人で夜通し2そうの小船を動かしては、網をおろして魚をとろうとしたのに、一匹もとれなかったのです。だから少なからず抵抗はあったと思われますが、ペテロは主のおことばに従いました。しかし、結果は網が破れるほどのおびただしい魚で、2そうの船が沈みそうになるほどの大漁だったのです。主はすべてをご存じです。主のご命令に従うときに、豊かな祝福をいただけるのです。
II. 主の真のお姿はきよい、正しい方です。
ペテロは、この時主イエスが魚のありかだけでなく、自分の本当の罪深い姿をいっさいご存じであることに気づいて、思わず、イエスの足下にひれ伏して、こう言いました。「主よ。私のような者から離れてください。私は、罪深い人間ですから」(8節)。これまでは「先生」(4節)だった愛するイエスさまは、罪も汚れもない、聖なるお方であることをかいま見て、「主よ」(8節)と呼ぶにふさわしい方だとわかったようです。私たちも主イエスのご本質がわかったときに御前に心からひれ伏すのです。
III. 主は私たちにこれからの道を示してくださいます。
しかし、主のお答えはあくまでやさしく、ペテロがこれから何をしたらよいかを教えてくださるものでした。「これから後、あなたは人間をとるようになるのです」(10節)。漁師であったペテロは、魚をとるのではなく、人間をとることがどういうことかわかったはずです。「人間をとる」とは、直訳すれば「人間を生けどりにする」ことです。確かに人の魂を漁る(すなどる)ことは、その人を殺すことではなく、生かすことです。ペテロはどのように応答しましたか(11節)。主のお約束のとおり、やがてペテロは初代教会の指導者となり、多くの人々を主に導きました。 |