2005年03月13日
「主イエスのお心」
ルカの福音書 5章12〜16節

 主イエスがなさった多くのいやしに中に、らい病の人のいやしがあります。今日の聖書の箇所で「全身らい病の人」を主イエスがきよめておられます。この「全身らい病の人」を新改訳第3版では「全身ツァラアトの人」と旧約で使われているヘブル語をそのまま用いています。その理由は、「ツァラアト」や「ツァラアトの人・物」は今日のらい病を指すと言うよりもっと広い意味の皮膚病を指して使われており、さらに家の壁や衣服ににも認められる現象でもあるからです。「衣服にらい病の患部が生じた」(レビ13:47)という表現はどう考えてもおかしいので、第3版は「衣服にツァラアトの患部が生じた」と訳し変えたのです。しかし、それですべて解決したわけではありません。「ツァラアト」とは何かがまだわかっていないからです。これからの研究によってもっと多くのことがわかってくるでしょう。
 今日は、主イエスがなさったみわざを通して示された主のお心を学びましょう。

 I. ツァラアトの人をきよめるのは、主のお心です。
 旧約時代からツァラアトに冒された人々は汚れているとされ、宿営の外にしか住むことができず、宿営の中を歩く時は、「汚れている、汚れている」と叫ばなければなりませんでした(レビ13:45-46)。このような人が元通りになるった時、いやされたと言うのではなく、きよめられたと言いました。ある町で全身ツァラアトの人がイエスを見たとき、彼はこう言いました。「主よ。お心一つで、私をきよくしていただけます」(12節)。イエスは手を伸ばして、彼にさわり、「わたしの心だ。きよくなれ」と言われました。すると、すぐに、ツァラアトが消えたのです(13節)。この人は、自分は汚れている病気だけれども、お気持ちさえお持ちなら、イエスさ様は必ずきよめることがおできになる、と信じていました。主イエスは何と手を伸ばして、患部にさわったのです。さわっても汚れが移ることがないこと、ツァラアトの人をきよめることは、主のお心であること、そしてきよめる力を持っておられることが明らかになりました。

 II. 時には主のお考えにより、だれにも話さないように命じることがあります。
 十字架による贖いのみわざが完成に至るまで、主イエスは時には人々にあかしをするように命じ、時には黙っているように命じました。主のお働きが人々によって妨げにならないかどうかが鍵であるように思われます。この人の場合は後者でした(14-15節)。

  今泉キリスト福音教会 牧師:岡本 昭世 【説教インデックスへ
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