主イエスの教えとなさったみわざはしばしばパリサイ人や律法学者たちの考えや行いと衝突しました。主の言動は彼らにとってあまりにラディカルでした。主が弟子たちと取税人や罪人と食事をいっしょにしたことも、パリサイ人たちの反感を買ったのですが、イエスの弟子たちが断食しないことも気に障ったことでした。彼らはイエスに「あなたの弟子たちは、断食も祈りもしないで食べたり飲んだりしています」と苦言を呈したようです(33節)。彼らに対する主イエスのお答えは、私たちがよく理解して、行うべきものでした。
I. 主イエスの福音は新しく、画期的なものです。
断食についての質問には、花婿であるイエスが、今花婿につきそう友だちである弟子たちといっしょにいるのに、どうして断食できますか、と答えています(34節)。弟子たちは神の国の王であり、救い主であり主イエスといっしょにいられる喜びの時なので、断食しないのです。しかし、やがて花婿である主が取り去られる(十字架にかけられる)時がきます。その時は断食するのです。そのことをさらにはっきりと教えるために、主は、ご自身の教えと行い、すなわち福音がが新しい着物、新しいぶどう酒であると言われました。福音には新しいいのち、新しい活力が満ちあふれているのです。
II. 主イエスの福音は新しい体制、制度が必要です。
パリサイ人たちや律法学者たちの教えには新しいいのちや活力はありません。彼らは律法の正しい教えを古い因習や形式に閉じこめて、形だけ守ってきました。しかし主イエスの福音には新しいいのちがあり、新しい活力があって、古い因習や制度の中に閉じこめることができません。ちょうど新しい着物を裂いて古い布切れに継ぎをすることが愚かなことであるように、また新しいぶどう酒を古い皮袋に入れると、ぶどう酒が皮袋を張り裂いて流れ出て、どちらもだめにしてしまうように、新しいぶどう酒は新しい皮袋に入れなければならないのです。主イエスの福音にちょうど見合うような新しいあり方、やり方、新しい制度が必要です。主は断食を否定したのではありません。人に見せるだけの、形式的な断食を戒めました(マタイ6:16-18)。さらに祈りも、偽善者のように人に見られたいような祈りをしないように注意しました(5-15節)。善行についても同様です(1-4節)。主イエスを救い主として信じている私たちは、主がなさったように行い、主が歩まれたように歩むことが大切です。それは福音にふさわしく生活することと考えられます(ピリピ1:27)。 |