2005年5月22日
「安息日は何のためにあるのか」
ルカの福音書 6章1〜11節

 わが国は法治国家であるため憲法を始め非常に多くの法律や規則、さらに各都道府県の条例などがあります。学校にも校則があって生徒は校則を守るように言われています。このような法律や規則は、私たちが安全で幸せな生活をするためにあるはずですが、往々にして規則が私たちの自由や幸せを奪ってしまうことがあります。イエス様の時代もそうでした。安息日を守ることは人々の幸せのためであるはずでした。でも実際は必ずしもそうではなかったのです。

 I. 安息日は人のためにあります。
 安息日に関しては十戒の中の第4の戒めに規定されています。「安息日を覚えて、これを聖なる日とせよ」(出エジプト20:8以下)。安息日とは、金曜日の夕方から土曜日の夕方までの1日を指し、この日は、イスラエルの人たちはいっさいの仕事をせず、休まなければなりませんでした。安息日が設けられた理由は、第1に、6日間の天地創造の後で7日目を休まれ、この日を聖別された主の模範に習うためです。第2に、主の模範に習って、6日間一所懸命働いて、7日目にはいっさい労働せず、からだを休めるためです。その休みには家族や奴隷、家畜も含まれます。第3に、最も大切なことですが、この聖別された日に主を礼拝するためです。
 ところがイエスさまの時代には、律法学者たちは当時すでにあった律法の注解書や解説書を用いて、律法をさまざまに解釈していました。この安息日に、主イエスの弟子たちが空腹のために、誰かの麦畑の麦の穂を摘んで手でもみ、からを取り、麦を食べていたのを、彼らはめざとく見つけて、弟子たちのしていることは「刈り入れ」と「脱穀」の労働に当たると非難したのです。これに対して主イエスは、ダビデが許された例を引いて(Iサムエル21:1-6)、律法は人のためにあると言われたのです。「今日のみことば」の通りです。

 II. 安息日は良いことをするためにあります。
 別の安息日に、主イエスは会堂で手のなえた人を真ん中に立たせて、「手を伸ばしなさい」と言って手を元どおりにいやしました(10節)。主は、いやす前にそこにいてイエスを訴えようとじっと見ていた律法学者、パリサイ人たちに「安息日にしてよいのは、善を行うことなのか、悪を行うことなのか。いのちを救うことなのか、いのちを失うことなのか」と尋ねています(9節)。普通に考えればわかるはずなのに、パリサイ人たちは、病める人たちや、傷ついた人たちをあわれんだり、同情したりする心がなく、ただ形式的に律法を守ることだけを考えていたのです。安息日は、人間のためにあり、善を行うためにあり、いのちを救うためにあるのです。

  今泉キリスト福音教会 牧師:岡本 昭世 【説教インデックスへ
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