2005年6月26日
「自分のことより他人のことが気になる」
ルカの福音書 6章37〜45節

 一般的に人は二つのはかりを持っているようです。自分のことをはかるはかりと他の人をはかるはかりです。そのはかりには、自分に対してはあまく、他人に対してはきびしい基準が目盛られています。主イエスは、私たちがどのようにすることを望んでおられるのでしょうか。

 I. さばいてはいけません。さばかれないためです。
 裁判官が公式な法廷の場でさばくことは必要なことです。主イエスがここで言われる「さばき」とは、人が自分の基準でほかの人をさばくことを意味しています。本来自分には人をさばき、批判する資格がないのにもかかわらず、他人の欠点や欠陥、失敗などを見てさばいてしまうのです。当時のユダヤ人の指導者であったパリサイ人たちは、罪人で何の取り得もないと思われる取税人をさばいて、自分の正しさを主張していました(ルカ18:9-14)。他人をさばくことは、自分が神様の立場に立つことで、傲慢な行いです。人を罪に定めることも同様です。そのようなことをすれば、自分もさばかれ、自分も罪に定められます。なぜなら他人をさばき、罪に定める人は、自分も同じようなことを行っているからです。人はみな罪人に過ぎません。だから私たちができることは、さばかない、罪に定めない、赦すこと(6:37)、そして与えることです(38節)。そうすれば、自分もさばかれず、罪に定められず、赦され、与えられます。

 II. 自分の目にある梁を取りのけなさい。よく見えるためです。
 人をさばいたり、罪に定めたりすることは、結局自分の罪がわからずに、他人の罪にのみ目が向いてしまうからです。主イエスはそれをユーモラスな表現で「自分の目にある梁」(41節)と言われるのです。私たちはしばしば自分の罪は、あったとしても小さく、取るに足りないものと考えます。一方他人の罪はかなり大きく考えます。しかし実際は、主が言われるように自分の罪の方が大きいのです。しかしそれに気がつかず、自分の目の梁はそのままにしておきながら、ほかの人の目のちりが気になって「兄弟。あなたの目のちりを取らせてください」(42節)と言ってしまうのです。私たちのしなければならないことは、自分の目の梁を取り除くことです。自分の罪に目をつぶらず、しっかりと罪と向き合って、それを主イエスの十字架の血潮によって取り除き、悪からきよめていただくことです。
 このようにして人は良い木となり、良い実を結ぶようになります。逆に良い実を結ぶ木ならば、その木は良い木と言えます(43-45節)。いろいろな面で豊かな実を結ぶ人は、指導者としてもふさわしく、人々を指導することができるのです(39-40節)。

  今泉キリスト福音教会 牧師:岡本 昭世 【説教インデックスへ
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