2005年9月4日
「実を結ぶ生活」
ルカの福音書 8章1〜15節

 主イエスは弟子たちや群衆に語りかけ、多くの大切なことを教えましたが、時々たとえを用いて教えました。主がたとえを用いた理由は、「目に見えない霊的な真理を目に見える日常的なたとえを用いて説明するため」です。特に神の国の奥義は、むずかしいが重要な真理なので、人々の理解のために主はたとえを用いたのです。さらにもう一つの理由があります。それは主イエスの教えに耳を傾けず、敵対し、わなにかけて陥れようとする人たちに対して、たとえを用いることによって真理を隠すためです(10節)。主の教えから学びましょう。

 I. 実を結ばない生活
 主は種まきのたとえの話をし、続いてその解き明かしをしました。「種を蒔く人」とは主イエスで、「種」は神のことばです。「道ばた」「岩の上」「いばらの真ん中」「良い地」はそれぞれみことばを聞いて受け止める人々の心を指しています。「道ばた」に落ちるとは、みことばを聞いても悟らず、悪魔が来て、みことばを持ち去ってしまうような人のことです。こういう人は救われません(5,12節)。「岩の上」に落ちるとは、みことばを聞くと喜んで受け入れるけれど、土も薄く、根がないので、困難や迫害などの試練に会うと直ぐに枯れてしまう(身を引いてしまう)人のことです(6,13節)。「いばらの中に」落ちるとは、みことばを聞いて受け入れるが、この世の心づかいや、富や快楽などの「いばら」が生い茂って、生えだしている茎をふさいでしまい、実が熟するまでに至らない人のことです(7,14節)。これら3種類の人たちは、それぞれに違いがあっても、みなみことばが実を結ばない点では同じです。

 II. 実を結ぶ生活
 これに反して「良い地」に落ちるとは、正しい、良い心でみことばを聞くので、みことばは心の中に深く入り、それをしっかりと守り、困難があっても良く耐え、みことばの通りに生きるので、百倍もの実を結ぶ人のことです(8,13節)。平行記事のマタイには、このように書いてあります。「ところが、良い地に蒔かれるとは、みことばを聞いてそれを悟る人のことで、その人はほんとうに実を結び、ある者は百倍、ある者は六十倍、ある者は三十倍の実を結びます。」(13:23) 人によって収穫の違いはありますが、それは問題ではありません。
 みことばを十分にいただき、主に従順に従って生き、みことばを実行する人、すなわちキリスト者は大きく成長し、実を結ぶのです。こういう人は、主イエスであるぶどうの木につながっている枝のような人で、決して枯れたり、切り取られたりせず、成長して豊かな実を結ぶのです(ヨハネ15:5)。

  今泉キリスト福音教会 牧師:岡本 昭世 【説教インデックスへ
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