2006年01月08日
「キリストの十字架・私の十字架」
マタイ16:21-28
 イエスを救い主と信じ、救われ、主の弟子となって従って行くためには、2つの十字架の意味をよく理解することが必要です。1つはキリストがかかって死なれた十字架、もう1つは弟子となった私たちが負わなければならない自分の十字架です。

 I. キリストの十字架
 イエスが弟子たちに「あなたがたは、わたしをだれだと言いますか」と尋ねられたとき、ペテロは「あなたは、生ける神の御子キリストです」と答えました(15-16節)。確かにペテロは、父なる神のお力によって、正しい信仰告白ができたと言えるでしょう(17節)。しかし主が続いてご自分がこれから受けるべき苦難について話されたとき、ペテロは反対しました。主が言われたことは、ご自分はこれからエルサレムに行き、長老、祭司長、律法学者たちから多くの苦しみを受け、殺され、そして三日目によみがえらなければならない、ということでした(21節)。ペテロにとって神の御子キリスト(メシヤ)は、決して死んではいけないのです。メシヤは永遠の主権と栄光と御国が与えられ、全世界の者たちがことごとく仕えるはずのお方だからです(ダニエル7:13-14)。だからペテロは、イエスを引き寄せていさめ始め、そんなことがあなたに起こるはずはありません、と断言したのです(22節)。しかし主イエスにとってペテロのことばは、まさにサタンの声であり、十字架への道を妨げるもの、躓きの石でした(23節)。十字架にかかって死なれることこそ、主がなそうとしておられる救いのみわざなのです。

 II. 私の十字架
 イエスはそれから、弟子となって従う者がこれからしなければならないことを言われました(24節)。それはまず「自分を捨てること」、次に「自分の十字架を負うこと」、そして最後に「イエスについていくこと」です。「自分の捨てる」とは、「否定する」「拒む」ことです。イエスの弟子になることは、自己中心とか自我という古い自分、古い生き方を捨てて、主のみこころに従おうとすることです。「自分の十字架を負う」とは、キリストに従うことによって起こるであろう苦しみや困難を避けないで、負うことです。人間的な思いや願いからすれば、避けたいと思う恥や苦難を敢えて受けることです。「イエスについていく」とは途中で止めないで、どこまでも、最後まで従って行くことです。人生は旅行にたとえられます。ある注解者が言ったように、まず自分に対してさよならを言い、次に十字架という荷物を負い、第3に最後まで主に従う旅を続けることです。この3つとも自分の力では到底できないことですが、主イエスを信じたとき、聖霊が私たちのうちに働いてくださり、私たちは力を与えられて、どこまでも主に従うことができるのです。
  今泉キリスト福音教会 牧師:岡本 昭世 【説教インデックスへ
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