2006年02月19日
「死、そして天国へ」
詩篇90篇1〜12節
 私たちの親しい人が重い病気にかかって、やがて亡くなったとき、私たちは本当に悲しく、淋しく思います。なぜならもう二度と会えなくなるからです。聖書には、死による悲しい別れについてたくさん書いてあります。今朝は、死について、そして天国について聖書から学びましょう。

 I. 死とはたましいがからだから離れることです。
 伝道者の書に「ちりはもとあった地に帰り、霊はこれを下さった神に帰る」とあります(12:7)。私たち人間は、目に見えるからだの部分と目に見えない霊、たましいの部分から成り立っています。それは神様が最初の人アダムを造られたときに、そうされたからです。「神である主は土地のちりで人を形造り、その鼻にいのちの息を吹き込まれた。そこでその人は生きるものとなった」(創世記2:7)のです。このようにからだはやがて土に帰るようにできています。しかし、霊、たましいは神がくださったいのちであり、さまざまなことを理解する能力や神様とお話ができる部分です。私たちが年を取って衰えたり、病気になって衰弱したとき、やがて死を迎えます。死とはからだとたましいの分離です。肉体は土に帰り、たましいは神様のもとに帰ります。これが死です。

 II. 死の時期は神様が決めておられます。
 私たち人間は神様が造られました。だから生も死もすべて神様が支配しておられます。いつまでも生きたいと思っても、「人の子らよ、帰れ」と神様が命令されれば、死ななければなりません(詩篇90:3、5-6)。 しかし、人が創造された最初から、死があったわけではありません。最初の人間アダムとエバが神様のおきてを破る罪を犯したから、人は死ぬようになったのです。死は神様が人に下した刑罰です(創世記2:17、3:17-19、詩篇90:7-9)。だから死ぬことと死による別れが悲しく、つらいのかも知れません。私たちは、いつ死ぬかは自分で決めることが許されません。それは神様がお決めになることです(伝道者3:1-2)。しかし神様は私たちを愛しておられ、いつも最善を用意してくださいます。だから主に信頼しましょう。

 III. 死は終わりでなく、天国にはいる門です。
 死は神様の人間に対する刑罰ですから、罪が赦されたら、死に対する見方も変わります。私たちが自分の罪を認め、主イエスの十字架によって罪が赦されると信じ、イエスさまを救い主と信じるならば、本当に罪が赦され、永遠のいのちが与えられます。いのちが与えられたならば、死んだときたましいは神様の御許(みもと)、天国に行きます。クリスチャンにとって死は終わりではありません。天国への門なのです。天国ですでに亡くなっている愛する人たちに再び会うことができるのです。ここに本当の慰めがあります。
  今泉キリスト福音教会 牧師:岡本 昭世 【説教インデックスへ
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