2006年03月26日
「偽善者とは?」
ルカの福音書 11章37〜44節
 ある国語辞典に、偽善とは「うわべだけを飾って正しいように、あるいは善人のように見せ掛けること」とあります。偽善者は英語でヒポクリトと言いますが、これはギリシャ語から出たことばで、昔仮面をかぶって演じた俳優を指しました。やがて表面だけをよく見せようと振る舞う人を偽善者と呼ぶようになりました。主イエスはパリサイ人や律法学者を「わざわいだ。偽善の律法学者、パリサイ人」と呼びました(マタイ23:13)。今日はルカの福音書からパリサイ人の偽善について考えてみましょう。

 I. 外側をきよめるだけで、内側をきよめない。
 主イエスはひとりのパリサイ人の家に招かれて、食卓に着かれました。ところが主は食事の前に、パリサイ人たちが念入りにやるような、きよめの洗いをなさいませんでした。パリサイ人たちはいつも、人々に誇示するために(聖書にはない)言い伝えのきよめの儀式を行っていたのです。主イエスは、驚いた彼らにこう言われました。「あなたがたパリサイ人は、杯や大皿の外側をきよめるが、その内側は、強奪と邪悪でいっぱいです。」(39節)  彼らは、真の神さまが外側も内側も造られたことに、心が向いていませんでした。心の中をどんなに隠しても、神様の目をごまかすことはできません。だから貧しい人たちを心からあわれみ、「うちのもの」すなわち豊かな食物やあり余る持ち物を人々に施こすならば、一切が、きよくなります、と主は言われるのです(41節、)。平行記事のマタイにはこうあります。「まず、杯の内側をきよめなさい。そうすれば外側もきよくなります。」そうなのです。私たちの心の内をすべてご存じの神様の前では、心がきよくされるように祈ることが大切です。

 II. 小さいことにこだわり、最も重要なことをなおざりにしている。
 パリサイ人たちは、律法に規定されている十分に一の原則(レビ27:30)を厳密に守ろうとしました。野菜でも薬味といわれるものの十分の一を納めては、人々から尊敬されたいと思ったのでしょう。しかし彼らは、最も大切な公義と神への愛をなおざりにしています。貧しい人々をあわれみ、十分な施しをしたり、正しい裁判、正しい政治が行われることを願うことと神を心から愛し敬うことをしていません(42節)。しなければならないことは、人々の目を気にすることなく、神様が喜んでくださることを第一にすることなのです。そうすれば、この世での地位の高さや人々から皆の見ている前で挨拶されることを求めなくなるでしょう(43節)。人々の目を気にし、人々の評価を求め、自分の醜さを隠して、立派であるように振る舞う生き方は、偽善者の生き方です。クリスチャンは真の神様を知り、信じていますから、そのような生き方から解放されるのです。最後に詩篇19:12-14を読み、主に祈り、感謝しましょう。
  今泉キリスト福音教会 牧師:岡本 昭世 【説教インデックスへ
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