2006年07月02日
「神様のもとに立ち返る」
ルカの福音書 15章11〜24節

「神様のもとに立ち返る」ルカ15:11-24
 若いとき人は、家庭には束縛ばかりがあって、自由がない、できるだけ早くこの家を飛び出して、自由で楽しい生活をしたい、と考えるかも知れません。それもお金がいっぱいあり、勝手に使えるならこんなにいいことはありません。しかし、家庭の外には本当の自由も楽しさも喜びもないのです。ではいつそのことがわかるでしょう。有名な「放蕩息子のたとえ」から大切なことを学びましょう。

 I. 神様から離れては、自由も楽しさもありません。
 この一家には広い畑や多くの家畜、豊かな財産があり、父の下に二人の息子と大勢の雇い人、しもべがいました。息子たちは父の下で畑仕事を手伝っていましたが、弟息子は単調で地味な仕事に嫌気が差して、ある日財産分与を受けて、遠い異教の地に旅立って行きました(12節)。息子が二人の場合兄は3分の2、弟は3分の1の財産が譲られます。弟は、裕福な家庭で何不自由なく生活をしていたはずですが、父の目の届かないもっと遠いところで、刺激の多い、歓楽の世界にあこがれたのでしょう。遠い国で彼は放蕩して湯水のように財産を使ってしまいました(13節)。放蕩息子は直接には取税人や罪人を指していますが、同時に、神のもとを離れて自分勝手に生きて来た私たち人間を指しています。かつての人類は神様が造ってくださったエデンの園というすばらしい楽園に住んでいましたが、罪を犯し、神の御許から離れてしまいました。神からは十分な才能や賜物、地球の資源などを与えられていましたが、それを自分勝手に浪費し、神との交わりを絶ち、家庭や社会での生活は真に満足の行く、霊的に豊かなものではありませんでした。放蕩息子はどうなったでしょうか(14-16節)。

 II. 神様の許に立ち返ったとき、本当の幸せがあります。
 惨めな生活を経験しないと、人は自分の真の姿に気がつかないようです。放蕩息子は、異教の地で、不名誉な豚の世話をさせられ、豚のえさであるいなご豆で腹を満たしたいほどでした。しかし、幸いなことに彼は我に返ったのです(17節)。自分の戻るべき父の家を思い出しました。帰ってからお父さんに謝ることばも復唱しました(18-19節)。そして立ち上がって、自分の父のもとに行きました。お父さんはどうしたでしょう(20節)。お父さんは息子が去っていったときから、毎日のように家の外に出ては、息子の帰るのを今か今かと待っていたに違いありません。息子の告白を全部聞かないうちに、もう彼をすべて受け入れ、以前の息子の立場に戻してくれました(22-23節)。息子が帰ってきたことをお父さんは心から喜びました。だから盛大な祝宴が始まったのです(24-25節)。

 神様は取税人や罪人が悔い改めて、御父のもとに立ち返るのを本当に喜ばれました。今日でも同様です。父なる神は私たちすべての者が、ご自分のもとに立ち返るのをいつも待っていて、悔い改めて立ち返ったとき、心から喜び、私たちを全面的に受け入れてくださるのです。その時私たちは本当のしあわせ、喜びを味わうのです。その帰り方を教えてくださるのは、他ならぬイエス様です。

  今泉キリスト福音教会 牧師:岡本 昭世 【説教インデックスへ
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