ファミリー礼拝 2006年08月27日
「お願いと感謝」
ルカの福音書 17章11〜19節

 教会の祈りの課題は毎週週報に載っていますが、多くの場合お知らせと祈りの課題が結びついています。私たちは、おもに教会内の事情をよく知って、教会の礼拝や祈祷会、各家庭、個人で祈っています。また個人的な祈りの課題も、差し支えない限り出していただき、祈祷会や分級、ナルドの香り会などで祈っています。私たちは主に対して、熱心に祈り、願いをしますが、祈りが叶えられたとき、時には感謝することを忘れてしまいます。どのようにすれば主のみこころに叶うでしょうか。

 I. 主にあわれみを求めることはよいことです。
 主イエスと弟子たちの一行はエルサレムへ向かって旅を続けていました。しかし、真っ直ぐにではなく、この時は、サマリヤとガリラヤの境を通ってペレアに向かい、ある村に入って、十人のツァラアトに冒された人に出会ったのです。ツァラアトに冒された人は、人々に近づくことが許されませんから、遠く離れた所に立って、声を張り上げて、「イエスさま、先生。どうぞあわれんでください」と言いました(12-13節)。主イエスは彼らをあわれんでくださいましたが、直接手を置いていやしたのではなく、「行きなさい。そして自分を祭司に見せなさい」と言われました(14節、レビ記14::2以下参照)。十人が祭司の所に行くからには、この病がいやされるに違いないと思ったので、歩き出したのでしょう。十人はその信仰を持っていたのです。彼らはみな途中でいやされました(15節)。主は彼らをあわれんでくださり、祭司の所に向かっていた十人のツァラアトに冒された人をきよめられたのです(17節)。

 II. 願いが叶えられたら感謝を忘れてはなりません。
 そのうちの一人は、自分のいやされたことがわかると、大声で神をほめたたえながら引き返して来て、イエスの足下にひれ伏して感謝しました。彼はサマリヤ人でした(15-16節)。イエスはこの人に何と言われたでしょうか(17-18節)。他の九人はまず祭司にきよめられたからだを見せて、きよいと宣言してもらうための手続きをお願いしようとしたのかも知れません。しかし、いやしてくださった主イエスへの感謝の思いはなかったのでしょう。神をあがめるために途中から引き返して来た人は、ユダヤ人ではなく、サマリヤ人でした。彼の心からの願いに答えてくださった主イエスへの感謝と神への賛美--それをサマリヤ人は忘れませんでした。主に対する信仰は本当に大切です(19節)。同時に感謝の気持ちを表すことも大切です。このいやされた人に対して主が言われたことばは、慰めに満ちたものでした(19節)。主イエスはサマリヤ人のからだをいやし同時にたましいもいやされたのです。
 私たちも願いが叶えられたら、感謝することを忘れないようにしましょう。以上の学びから、「今日のみことば」(气eサロニケ5:16-18)の喜び、祈り、感謝が、それぞれ別々のものではなく、御父と主イエスへの祈り、願いのなかで常に行われている三つの要素であることを教えているように思います(またピリピ1:3-5参照)。

  今泉キリスト福音教会 牧師:岡本 昭世 【説教インデックスへ
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