2006年10月01日
「義と認められる祈り」
ルカの福音書18章9〜14節


 私たちは時間を決めて、あるいは必要なときに個人的に祈ります。主イエスの時代のユダヤ人は、一般に一日3回祈りの時を持ちました。主イエスのたとえに出てくるこの二人の祈りは、例えば昼の祈りだったかも知れません。主が祈りについて教えたいと思ったのは、自分を義人だと自認し、他の人々を見下している者たちに対してその間違いを指摘し、どのような祈りが主の御前に受け入れられるのかを教えるためでした。

 I. 自分を正しいとする祈り
 パリサイ人と取税人が同時に祈るために宮に上りました。パリサイ人の祈りは、神に罪の赦しを願うとか、何かを切に求める祈りではありませんでした。自分を正しいとする祈りでした。第一に、自分は他の人と比べて、何も悪いことをしていないことを感謝しています(11節)。第二に、自分は律法を厳格に守っている人間であることを誇っています(12節)。第一の祈りの特徴は、他人と比較して、自分がどんなに正しく、真面目な人間であるかを自己評価するものです。神の前に自分がどんなに罪深いものであるかが、少しもわかっていません。彼の関心事はあくまで人と比べる自分なのです。第二の祈りも、自分は律法を厳格に守っていることを誇示する祈りで鼻持ちがなりません。それも律法で命じられている以上のことをして、その敬虔さを人々にアピールしているのです。彼の祈りには形式的で、謙遜さも真剣さも感じられません。彼には自分の罪が見えていないのです。

 II. 罪人の自分をあわれんでくださいと願う祈り
 一方取税人の祈りは、全く反対のものでした。取税人は一般のユダヤ人が入って祈る場所から遠く離れて立ち、しかも目を天に向けようともせず、自分の胸をたたいて、こう言いました。「神さま。こんな罪人の私をあわれんでください。」(13節) 取税人は確かに、誰の目にもパリサイ人よりも罪深く見られることをしていたでしょう。取税人は一般に、貧しい人々から力づくで決められた額以上の税金を取り立て、私腹をこやしていたからです。彼は自分の罪をはっきりと自覚していました。だから、人々の目を気にすることなく、率直にただ神さまにのみ目を向けて、罪の赦し、主のあわれみをお願いしたのです。パリサイ人と取税人と、どちらが神の前に義と認められて、家に帰りましたか(14節)。もちろんパリサイ人でなく、取税人です。主が続いて言われることに耳を傾けなければなりません(14節後半)。神の御前に謙遜になり、自分の罪を言い表すときに、主は十字架の贖いのみわざのゆえに、私たちの罪を赦し、きよめてくださるのです(气ハネ1:9参照)。

  今泉キリスト福音教会 牧師:岡本 昭世 【説教インデックスへ
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