2006年10月15日
「天の御国に入るためには?」
マタイ18:1-5、19:13-15

 皆さんのクラスで誰が一番かけっこが早いかとか、誰が一番勉強ができるかとか、誰が一番人を笑わせることができるかとか、が話題になるでしょうか。昔も今もその種類に違いがあっても、「一番」になりたい、みなから注目されたいと思う気持ちに変わりがないでしょう。主イエスの弟子たちの最大の関心事は、誰が一番偉いか、ということでした。それも何と天の御国で誰が一番偉いか、なのでした(1節)。しかし、イエスのお答えは彼らの想像外のものでした。

 I. 悔い改めて子どものようにならないと、天の御国に入れない。
 主イエスは、小さい子どもを呼び寄せて、彼らの真ん中に立たせて、大切な真理を教えられました(2-3節)。「悔い改めて子どもたちのようになる」とはどういうことでしょうか。悔い改めるとは、ギリシャ語で「向きを変える」の意味があります。これまで神さまの方を向いていなかったのを改めて、神さまの方に向きを変えることを意味します。幼子は、イエスさまからこっちに来なさいと言われたら、素直にイエスさまの方に向きを変えるでしょう。このことが神の国に入るために必要なことです。別なときに、主イエスに手を置いて祈っていただくために、子どもたちが連れて来られました(19:13)。ところが弟子たちは子どもたちを叱ったのです。主は何と言われたでしょう(14節)。子どもたちは喜んで主の許に来ます。それが神の国に入る条件でもあります。主を受け入れることは、神に国を受け入れることでもあります(ルカ18:17)。このように、素直に主の御許に来ることが一番大切なのです。

 II. 子どものように自分を低くする者が、天の御国で一番偉い。
 弟子たちは、主イエスとエルサレムに向かう途中でも(マタイ20:20-24)、最後の晩餐の時も(ルカ22:24)、自分たちの中で誰が一番偉いかを言い争っていました。だから弟子たちにとって子どものように自分を低くすることは、とてもむずかしいことだったのです。弟子たちの前に小さい子どもを立たせる理由は、高ぶっていない、へりくだっている子どもに見習う必要があったからです。実際クリスチャンになっても謙遜になることは大変むずかしいことです。それは、この世の基準がみな、社会的地位の高い人やお金のある人、権力のある人が偉い人として尊敬され、自分もそれを目指すからです。その価値基準が教会の中にまで入って来るので、気をつけなければなりません。主イエスを救い主と信じる私たちは、主イエスの生き方、教えに従わなければならないのです。天の御国での上下関係は、この世の基準と全く逆になります。人々から仕えられるのではなく、仕える人になるときに、主は私たちを天の御国で高くしてくださいます(25-28節、18:4)。

  今泉キリスト福音教会 牧師:岡本 昭世 【説教インデックスへ
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