2007年01月21日
「思いやりのある人になるために」
ヘブル13:1-6

 クラスの友だちからいじめられて、自らの若い命を絶ってしまうことほど、痛ましく、残念な事件はありません。もしクラスや学校にいじめがなければ、その人は死ぬことはなかったからです。その人はやがて立派に成人して社会のために大きな働きをしたかも知れません。私たちの周りに、いや、私たち自身のうちに、何か欠けているものがあるのかも知れません。それは「思いやり」と言えるでしょうか。今日の聖書箇所からご一緒に考えてみましょう。
 . 思いやるとはどういうことか。
 「牢につながれている人々を・・・思いやり」なさい、とヘブル人への手紙の記者は勧めています(3節)。大きな犯罪を犯して、有罪となり、牢屋に入れられているのではなく、例えば福音を語ったゆえに捕らえられている人とか、政治的な理由で獄につながれている人々のことが考えられます。当時の獄中の生活は本当に過酷なものだったでしょう。主イエスの弟子として、そのような人々の苦しい気持ちを思いやることが求められています。同じ肉体を持つ者として、苦しみの中にいる人たちを思いやり、何かして上げられないだろうか、と考えます。このような思いやりは、主イエスが初めから持っておられたものです。ことばは違いますが、主は羊飼いのない羊のように弱り果てて倒れている群衆を見て、「かわいそうに思われ」ました(マタイ9:36)。主は彼らの気持ちを十分に理解し、救いの手を差し伸べられたのです。私たちは、小さい頃から友だちと遊んだり、競争したり、勉強したりしていく中で、友だちの心の中の思いを想像したり、共感したりする気持ちが育っていきます。ぶたれた時、痛かったと経験しますから、友だちもぶたれたら痛いだろうと思う気持ち(共感性)が育ちます。でも現実には、自分の痛さはわかっても、友だちの痛さがわからない子ども(大人も!)がふえているようです。
 .  どうしたら思いやりを持てるだろうか。
 ヘブル書の記者は、「兄弟愛をいつも持っていなさい」と命じています(1節)。この兄弟愛こそほかの人の気持ちを理解する鍵と言えるでしょう。自分のことだけでなく、ほかの人の幸せを心から願い、そのために何かして上げられないか、と考えるならば、その人の気持ちを理解することになります。主イエスは「あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ」という第二の戒めも大切と言われました(マタイ22:39)。このような愛は、生まれながらの罪を持った私たちにはないものです。主イエスを救い主として信じたとき、罪の赦しとともに与えられる恵みです(御霊の実)。どんなに小さくても与えられていますし、育っていきます。だからそのような兄弟愛によってほかの人の苦しみや痛み、悲しみやつらさを思いやることができるのです。そしてそのために必要な主のご臨在と主の助けがあります(5-6節)。
 私たちの周りの多くの家庭で(私たちの家庭でも!)このような「共感性」が健全に育ってほしいし、イエスさまを信じることによって本当の「共感性」である「思いやり」がさらに育ってほしいですね。そうしたら家庭も学校も職場も、変わって行くのではないでしょうか。

  今泉キリスト福音教会 牧師:岡本 昭世 【説教インデックスへ
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