私たちが生徒なら、学校に行って学んだり、部活をしたり、友だちと遊んだりして、楽しい時を過ごします。私たちが会社員なら、仕事にやりがいを感じ、職場の同僚や上役ともうまく行っているので、会社に行くことは楽しいはずです。でも現実は必ずしも私たちが望んでいるようには行きません。時には友だち関係が壊れたり、先生が厳しかったりして、学校に行きたくない時もあるでしょう。人間関係や仕事上の問題が起きて、会社に行きたくなくなる時もあるでしょう。そのようなとき失望しないで、希望を持ち続けることができれば、いつの日に光が差して来るに違いありません。パウロから学びましょう。
I. クリスチャンは失望しない。
パウロは主イエスを信じたとき、彼の人生は一変しました。それまでの神との関係の中になかったイエス・キリストが救い主として入って来たからです。イエス・キリストのゆえに、信仰によって義と認められ、神との平和が得られ、神の栄光を大いに喜ぶようになりました(1-2節)。そればかりでなく艱難さえも喜ぶのです。それはひとりパウロだけでなく、私たちすべてのクリスチャンに当てはまるのです。艱難さえ喜ぶ理由は、次のような図式によります。艱難が忍耐を、忍耐が練られた品性を、練られた品性が希望を、生み出すからです(4節)。そしてこの希望は失望に終わることがありません。その理由は神の愛が私たちに注がれているからです(5節)。神は私たちを深く愛してくださいます。パウロほど苦難に満ちた伝道生活を送った人はいなかったでしょう。それはコリント11:23-33に記されているとおりです。しかし彼は決して失望せず、希望を持ち続けることができました。神の愛の故です。しかも彼はさまざまな苦難の中で人格的に成長していったのです。
II. 神の愛をもう一度確認しよう。
それほどまでに大きな力を持つのが神の愛なら、私たちは神の愛を再確認する必要があります。それはキリストの十字架において現された神の愛です。「しかし私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死んでくださったことにより、神は私たちに対するご自身の愛を明らかにしておられます。」(8節) 神がそれほどまでに私たちを愛してくださったこと、今もなお愛してくださっていることは大きな驚きです。私たちに愛される何かの資格があれば別です。しかし私たちは正しくもなく、情け深くもなく、弱く、不敬虔な者、罪人に過ぎません。だから神の愛はまさしく無条件の愛なのです。その事実を知ることは、私たちを深いところで強くします。どんな状況に置かれても失望しません。希望があるからです。決して強がりを言っているのではなく、主が私たちを全面的に受け入れてくださったように、自分自身をそのまま受け入れることから、私たちは強くなれるし、希望が持てるのです。私たちは主のしもべとして、「・・・死にそうでも、見よ、生きており、罰せられているようであっても、殺されず、悲しんでいるようでも、いつも喜んでおり、・・・、何も持たないようでも、すべてを持っています。」(コリント6:8-10) この恵みに満ちた現実をまず受け入れましょう。希望はそこから始まります。
|