「クリスチャン」は、初代教会時代にアンテオケで、恐らく反対者たちが軽蔑の意を込めてつけたニックネームです。その意味は「キリストにつく者、キリストに従う者」です。初代教会の信者たちは、周りの人たちから明らかにキリストに従う者、キリストの弟子と見られたのです。ではクリスチャンとは何でしょうか。今朝はその内容を学びましょう。
I. クリスチャンは、イエス・キリストを信じて罪が赦され、永遠のいのちが与えられた人たちです。
私たちは聖霊に導かれて、イエス・キリストを救い主として信じ、告白することができます(气Rリント12:3)。すでに主イエスの十字架と復活による救いのみわざが完成していますから、私たちはその事実を受け入れ、自分の罪を認め、告白すれば、罪が赦されます。それだけでなく神に御前に正しいとされ、永遠のいのちが与えられて、神のみもとに行くことができます。しかし、この救いをいただくためには、私たちの側に何の働き・行いも必要ありません。「あなたがたは恵みの故に、信仰によって救われたのです」(エペソ2:8)の通りです。このように何の努力も、善行も、修行も必要ないとすると、多くの人はそんな簡単なことで与えられる救いに、何かありがたさが足りないように感じるかも知れません。しかし、それでよいのです。本当の救いがお金や修行、善行などで得られるはずがないからです。ただで与えられるからこそ、主イエスの救いは本物だと言えるのです。
II. クリスチャンは、洗礼を受けて、イエス・キリストの弟子となった人たちです。
弟子とは、先生といつも一緒に生活し、先生から学ぶ者です。クリスチャンはキリストの弟子としてキリストから教えと生き方を学び、キリストが歩まれたように歩んでい行く者なのです。また、ほかの誰よりも優先するお方、私の主、私の王として従っていかなければなりません。もし二つの道が示された時、主のみこころを第一に求め、その道を選び取っていかなければならないのです。そのためには困難や迫害があるかもしれません。でも「自分の十字架を負って」主イエスにどこまでも従って行かねばなりません(ルカ14:26-27)。しかしそれはすばらしい栄光の道でもあるのです。
初代教会においては、エチオピアの宦官のように、神を恐れる者が少なからずいました。彼らは割礼こそ受けませんでしたが、大きな犠牲を払ってエルサレムに来て、宮で礼拝をささげ、律法を守り行おうとしました(使徒8:27-28)。彼らは聖書を読み、この宦官のようにメシヤ預言と言われるところを理解しようとしていました(32-33節)。彼は、ピリポの導きによって、イエス・キリストを信じ、直ちにバプテスマを受けました(34-36節)。洗礼は主に従うことも目に見える表明です。主に従いましょう。
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