2007年07月08日

「神の国で一番偉い人は?」
ルカの福音書 22章24〜30節
 主イエスが明日にでも十字架にかかられるというのに、弟子たちの関心事は、彼らの中で誰が一番偉いだろうかということでした。この最後の晩餐という過越の食事の時に弟子たちはそのことで議論を始めたのです。そこで主イエスは、これからの使徒としての長い福音宣教と教会奉仕の働きのために、真に大切なことを教えられました。

I. この世では人々を支配する者が一番偉いのです。
 当時の支配者は、ローマ皇帝であり、そこからユダヤに派遣されたポンテオ・ピラトであり、ヘロデ王でした。彼らはユダヤの人々を支配し、権力を振るいました。彼ら自身も支配者こそ偉い者たちであると確信し、人々もそう思っていました。この構図は今日でもまったく同じです。一国の大統領がその国で一番権力があり、人々を支配します。わが国でも首相が一番支配権を持っています。しかも、支配権を持ち、上に立つ者が最もこの世的に豊かな生活ができるのです。また、人々から尊敬されます。だから、皆偉くなりたいと思い、そのように努力します。
 私たちの回りでも一般的に考えて、多くの人は係長から課長へ、課長から部長へ、さらにできれば重役に、そしてもしも可能なら社長になりたいと思うでしょう。そして上になればなるほど多くの部下ができて、彼らの上で指導力が発揮できるし、それ相応の生活が保障されます。だから少しでも上に立ちたいのです。

II. 神の国では人々に仕える者が一番偉いのです。
 主イエスのお答えは弟子たちの考えとまったく逆でした。主の弟子になって従っていく者は、一番年が若い者のように振る舞わなければなりません。治める人は仕える人のようでなければなりません(26節)。食卓についてご馳走を食べようとする者は、給仕する者のようにならなければなりません(27節)。このようにこの世の基準とはまったく逆の価値観が神の国のあり方なのです。主イエスはまさにこのような仕える人生を送りました。栄光の神の御座から下られて、私たちとまったく同じような人間となられ、神としてのあり方ではなく、しもべとしての道を歩まれました。仕えられるためではなく、仕える生き方を通されました。そのクライマックスは「多くの人のための、贖いの代価として、自分のいのちを与える」十字架での死でした(マルコ10:45参照)。
 このようなしもべとして仕える生き方は、教会の中で実行すべきです。教会は神の国のいわばひな形、前味です。確かにさまざまな問題がありますが、なお主イエスを模範として仕えることを実践するのです。そしてそれができるのです。私たちの心に聖霊が働いて、本当にへりくだらせてくださり、そのような生き方に喜びを見出すことができるからです。
  今泉キリスト福音教会 牧師:岡本 昭世 【説教インデックスへ
静岡県富士市今泉2640-15 TEL&FAX:0545-52-6382