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「誘惑に負ける・立ち直る」
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ルカの福音書 22:31-34,54-62
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人は誰でも誘惑に負けたいと思いません。否むしろきっと誘惑に勝てるとさえ思うかも知れません。ペテロはいつも自信満々でした。しかし彼はいとも簡単に誘惑に負けて、イエスを知らないと3度も言ってしまったのです。しかし、それですべてが終わったのではありません。彼はやがて立ち直ったのです。今日はこの大切な事柄に目を向けてみましょう。
I. 人は誰でも誘惑に負ける時があります。
主イエスは最後の過越の食事の時に、弟子たちの中に高ぶりと競争があることを指摘し、人々に仕えていく生き方こそ大切であると教えられました(24-27節)。続けて主は、ペテロたちがサタンの誘惑に負けてしまうことを予告します(31節)。「サタンが、あなたがたを麦のようにふるいにかかえることを願って聞き届けられました」のおことばは不思議な表現です。しかし、事実なのです。サタンも無条件で人々を誘惑することはできません。必ず神の許可を受けることが必要です。かつてサタンは神の許可を得て、信仰の人ヨブにこれ以上はないと思うような苦しみを与えました。どうして神はサタンに人を誘惑したり、苦しみを与えるのを許されるのかは、はっきりとはわかりません。ただ言えることは、私たちの信仰は自発的なものであり、さまざまな試練の中で試されるということです。ペテロはこれまで自分は弟子たちの中で一番信仰も強く、イエスさまのためなら、死ぬ覚悟もできているから、誘惑に負けてしまうことはあり得ないと思っていました(33節)。ところが主が予告されたように(34節)、イエスが捕らえられて、その後について行った大祭司の中庭で、3人から問いつめられて、イエスなんか知らないと3度も言ってしまったのです。ペテロに限らず人間的な力に頼る人は、いざというとき弱いものです。
II. 人は誰でも立ち直ることができます。
ペテロがイエスを3度知らないと言ったとき、鶏が鳴き、イエスさまは振り向いてペテロを見つめられました。ペテロは、「きょう、鶏が鳴くまでに、あなたは、三度わたしを知らない」と言われた主のおことばを思いだし、外に出て、激しく泣きました(61-62節)。主は決して責めるつもりでペテロを見つめたのではないでしょう。「人はいざとなると、何と弱いものか知ったでしょう。わたしが言った31-32節をよく考えなさい」とペテロに教えられたのではないかと私には思われます。ペテロはきっとここで悔いの涙を流し、自分の弱さと罪を認め、心から悔い改めたと思われます。これは立ち直るために非常に大切なステップです。やがてペテロは、主イエスから懇(ねんご)ろなお取り扱いを受けて、完全に立ち直りました(ヨハネ21:15-18)。しかし同時に主イエスが誘惑に負けたペテロのために執り成しの祈りをされたことを忘れてはなりません(32節)。主のその祈りがあったからこそペテロは立ち直ることができたのです。そしてペンテコステの時から、初代教会の指導者となって力強く福音を語り、兄弟たちを力づけたのです。今日でも主イエスは私たちのために執り成しの祈りを続けておられます(・ヨハネ2:1)。だから私たちは心強いのです。 |
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