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「復活のからだの不思議」
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ルカの福音書 24章33〜43節
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私たちは、主イエスが再びこの世に来られるとき(再臨)、私たちは死からよみがえると信じています。そのことは聖書の中に何回も繰り返され、また使徒信条を唱和するとき、改めて確認します。私たちの復活のからだはどのようなものなのでしょうか。それも聖書からしか知ることができませんが、ここに一つの大きなヒントがあります。それはよみがえられたイエスご自身のからだです。
I. それはからだを持った霊のからだです。
主イエスは明らかにからだをもって復活されました。だから弟子たちが目で見ることも、手で触ることもできました。エマオに向かっていた弟子たちに現れた主イエスは、紛れもなく人として現れましたから、彼らはイエスだと見分けられなかったのです。確かに肉体を持ってはいますが、時間や空間に左右されないからだでもあります。主イエスは、今の今まで弟子たちと話していたのに、突然彼らの前から消えてしまい(31節)、また突然エルサレムの十一使徒とその仲間が集まっている所に現れることもできました(36節)。平行記事のヨハネによれば、ユダヤ人の指導者たちを恐れて、戸を閉じて息を潜めていた弟子たちの所に、主は扉を開けないで入ってきたことがわかります(20:19)。このように、これまでの肉体ではないことは確かですが、いわゆる霊ではないことも明らかです。つまり、これまでの肉体ではないが、からだを持った「霊のからだ」と考えられます。食べ物や飲み物を必要とはしませんが、食べることもできます(41-43節)。私たちもやがてイエスさまのようなからだによみがえるのです。
II. それはもはや朽ちることのない霊のからだです。
主イエスが再びこの世に来られるとき、よみがえる私たちのからだのことは、パウロが詳しく教えています。復活のからだは、これまでの朽ちるからだではなく、朽ちないからだであり、卑しいからだではなく、栄光あるからだであり、弱いものではなく、強いものであり、血肉のからではなく、御霊に属するからだです(气Rリント15:42-44)。よみがえりのたからだは、イエスと同様に死に打ち勝つからだですから、もはや死ぬことがありません。死とその原因である罪の力から完全に解放され、私たちは永遠に生きることがきるのです。それは主イエスと御父とともにいつまでも生きることであり、主にあって召された愛する者たちと再会することでもあります(气eサロニケ4:13-18)。だから私たちはパウロの次のことばに励まされるのです。「ですから、私の愛するき兄弟たちよ。堅く立って、動かされることなく、いつも主のわざに励みなさい。あなたがたは自分たちの労苦が、主にあってむだでないことを知っているのですから。」(15:58) |
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