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「イエスの御名だけによる救い」
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使徒の働き4章1-12節
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最近は、特に、信教の自由が与えられている国々では、キリスト者が福音を語ったり、よいわざをしたからという理由で迫害を受けたり、裁判にかけられることはありません。しかし、初代教会においては、イエスの復活を説いたり、いやしのわざを行うと、使徒たちはユダヤ人の指導者たちから迫害を受け、最高議会に立たされて、弁明しなかければなりませんでした。しかし、それは福音を語る絶好の機会でもあったのです。
I. イエスの御名によってよいわざがなされる。
初代教会の大きな特徴は、使徒たちの手によって、主イエスがなさったと同じようないやしや奇蹟を行ったことです。それは、主が彼らにそのようなしるしを行う権威と権限を与えられたからです。その権威はその次の世代や後々の世代に受け継がれることはありませんでした。しかも、使徒たちに与えられた権威は、彼らがあくまでもイエスの御名を用いてしるしを行うことが許されるのであって、彼ら自身に奇蹟を行う力があるわけではありません。それは、すでにペテロが群衆に説明しているとおりです(3:12、16)。また、ここでもペテロはこう言っています。「・・・この人が直って、あなたがたの前に立っているのは、あなたがたが十字架につけ、神が死者の中からよみがえらせたナザレ人イエス・キリストの御名によるのです。」(10節) 今日でも主イエスは私たちキリスト者の手を用いてみわざをなさっていますが(救いのみわざや時にはいやしのみわざ)、それは、私たちが福音を語るとき、みことばが聖霊とともに働くからであり、時々に主が私たちの祈りに答えていやしてくださるからです。
II. イエスの御名によってのみ救われる。
私たちは、ナザレのイエスが、天地万物を造られた父なる神から遣わされた神の御子であり、旧約聖書に預言されたメシヤ=キリスト、すなわち救い主であることを信じています。使徒たちが、ペンテコステのときに与えられた確信は、まさにこのメシヤ観でした。彼らが、罪からの救い、その束縛からの自由は、イエス・キリスト以外にはないことを確信していたので、こう言い切ったのです。「
この方以外には、だれによっても救いはありません。天の下ではこの御名のほかに、私たちが救われるべき名は、人に与えられていないからです。」(12節) 私たちがイエスを信じ、受け入れることとその名を信じることとは同じです(ヨハネ1:12参照)。主イエスの御名を信じることは、主イエスの全人格を受け入れることでもありますから、使徒たちとともに私たちはイエスの御名によって、罪が赦され、神の子どもとされ、救いをいただけるのです。この御名のほかに本当の意味での救いはありません。私たちも使徒たちとともにそう確信し、生きているのです。。 |
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