礼拝説教

2008年3月30日

「見ずに信じる信仰」
ヨハネの福音書 20章24〜29節
 先週はイースターでした。よみがえりの主イエス・キリストを賛美し、心からの礼拝をおささげしました。私たちは、この目で主イエスの復活を目撃したわけではありません。しかし、皆主の復活を信じています。復活の証人である使徒たちの証言(それが聖書に書かれています)を信じているからです。しかし、使徒たちの中に主のよみがえりを信じなかったトマスがいました。今朝はトマスの信仰について考えてみましょう。

 I. 見て信じる信仰
 主イエスは、よみがえられた日の夕方、エルサレムのとある家に弟子たちがこっそりと集まっていた中に、突然現れました。弟子たちは生きておられる主を見て喜びました(19-20節)。ところがそのとき、デドモ(双子という意味)と呼ばれるトマスがいませんでした(24節)。それで、弟子たちが「私たちは主を見た」と言ったのに、トマスはこう言い切りました。「私は、その手に釘の跡を見、私の指を釘のところに差し入れ、また私の手をそのわきに差し入れてみなければ、決して信じません。」(25節)。トマスは今日の私たちに似ていて、懐疑的で実証的だったようです。確かに十字架にかかって死んだ主イエスがよみがえったことは、信じがたいことに違いありませんが、他の弟子たちが口を揃えて「私たちは主を見た」と言っているのを真っ向から否定しているのです。トマスにとって見ないで信じることはできなかったのです。

 II. 見ずに信じる信仰
 最初のイースターから1週刊後、弟子たちは前と同じ室内におり、トマスもいっしょにいました。そこに主イエスが入って来られ、「平安があなたがたにあるように」と言われた後で、トマスに言われました。「あなたの指をここにつけて、わたしの手を見なさい。手を伸ばして、わたしのわきに差し入れなさい。信じない者にならないで、信じる者になりなさい。」(27節)主イエスのよみがえりのからだは、戸が閉じられても入って来ることのできるからだになっています。トマスはイエスを見てどうしたでしょうか。彼は「私の主。私の神」と言って、主イエスが、死からよみがえったこと、旧約聖書に預言されていたメシヤであること、神の御子であることがわかり、主を信じました。見て信じればよいのでしょうか。主は、「あなたはわたしを見たから信じたのですか。見ずに信じる者は幸いです」と言われました(29節)。実は、見ないで信じることが信仰の本質なのです。今日の私たちはまさしく聖書を通して、主イエスが神の御子、キリストであると信じています。それが見ないで信じる信仰であり、主が喜ばれる信仰なのです。
  今泉キリスト福音教会 牧師:岡本 昭世 【説教インデックスへ
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