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「主を畏れることを知ろう」
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詩篇 34篇1〜14節
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今日から2008年度が始まります。今年1年間の教会と私たち一人一人の歩みが祝されるように、心から願っています。新年度の年間目標は、「信仰の継承ー親も子も主を愛し、主を畏れることを知ろう」となりました。親も子も、みことばから学び、毎日の生活の場で、主を畏れることを知って行きたいと思います。今朝は、主題聖句である詩篇34篇11節を中心に、主を畏れることの意味を学びましょう。
I. 主を畏れることは、敬虔な態度で主を礼拝し、主に仕えることである。
主を畏れるということばは、聖書全体で広く使われており、その意味も多岐にわたっていますから、まとめることはむずかしいのですが、今日は二つの点から見て行きましょう。その一つは、文字通り主を畏れることですが、それは主を礼拝する態度となって表れます。新改訳聖書には、「畏れる」という字は使われていません。すべて「恐れる」という字で、「主を敬い畏れる」意と「主が刑罰を科するのを恐れて、遠ざかる」意の両方の意味で使われています。ここでは前者の意味です。主を畏れるなら、「あらゆる時に主をほめたたえ」、「いつも、主への賛美」(1節)があります。今日の詩篇にある、主へのほめたたえや賛美、主に対する誇り、御名のあがめ、喜びなど、みな礼拝と関わっています。私たちは、いつも敬虔な態度で主を礼拝し、主に仕えています。「恐れつつ主に仕えよ。おののきつつ喜べ」(詩篇2:11)のとおりです。5:7も参照。このような主を畏れる敬虔な態度でおささげする礼拝を、主は喜んで受け入れてくださいます。
II. 主を畏れることは、悪を離れ、正しい生き方をすることである。
次に主を畏れることは、この世での生き方に表れます。それは私たちの極めて具体的な日常での生き方を左右します。「あなたの舌に悪口を言わせず、くちびるに欺きを語らせるな。悪を離れ、善を行え。平和を求め、それを追い求めよ。」(13-14節)この詩篇の記者ダビデが、愛する若者たちにぜひとも教えたいことは、主を畏れることでした(11節)。それは、敬虔に主に仕えることとともに、悪の世にあって、正しい生き方をすることでした。主を畏れて善を行い、正義と公義を行う生き方は、決して容易ではないでしょう。しかし、そのような生き方には、さまざまな恐怖、悩み、弱さ、苦しみが伴うので、信仰者は心から主に助けを求めます。すると主は必ず助けだしてくださいます(4-7節)。それはダビデの経験であり(Iサムエル21:10-15)、すべての信仰者が経験する試練と救出でありましょう(Iコリント10:13参照)。また、主を畏れる生き方は、詩篇15篇にきわめて具体的に適切に書かれています。そのような生き方をする者を、主が恵みをもって答えてくださらないはずはありません。だからこそ、ダビデはこう言うのです。「主のすばらしさを味わい、これを見つめよ。幸いなこことよ。彼に身を避ける者は。」(8節) |
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